【Lady bird】
明け方の街は1日を終わりきった表情で
それでいて、眠気まなこな表情で始まっていく。
路肩には、空になったインスタントラーメンの容器や、少しだけ入った缶コーヒー、吸い殻、まさに、【ゴミ】としか呼べない物たちが散らばっている。
どうせ誰かが片付けるんだろう
横目でそれらを見ていく人たちは
皆が皆、そう思っているから気にもしない。
こんな事は日常茶飯事だったはずなのに
あの日を境に胸を締めつける光景になってしまった。
俺と愛の出会いは、とてもいいものではなかった。
本当ならば恋心を抱いてはいけない
出会っていいはずもなかった。
半年前、SNSサイトで知り合いやりとりを始めた。
他愛もないことを毎日、それが互いの日課であるように話をした。
偶然にも、住んでいる場所が近いことと
年齢も同じ30歳ということもあり
話は尽きることを知らなかった。
愛が結婚していることは
やりとりの中で知った情報の一つだった。
愛の旦那は出張が多く
家に帰って来るのは月に2~3回くらいらしい。
程なくして、会ってみない?ということになった。
俺は、愛が既婚者であると知ってから
このやりとりを続けていてもいいのかと
度々悩んでいた。
会おうよと言い出したのは愛の方だった。
1回くらいなら大丈夫だろうと思い
俺は約束をした。
画面上でやりとりしている【サイトの人】と会うのは、お互いに初めてだった。
怖いという感覚はなかったけれど
とても不思議な感覚があった。
その日、俺は仕事を早く切り上げて
セピア通りの大きな時計台へ急いだ。
セピア通りの時計台は、待ち合わせ場所にはうってつけな場所で、その日もたくさんの人が時計台の周りにいた。
顔も知らない人と会うのは
すごくドキドキした。
好きな人に告白を決意した時のような
胸の高鳴りに似ていた。
ポケットに入れていた携帯が震えた。
確認すると愛からのメールだった。
『どこにいますか?
あたしはベージュのコートに
赤いマフラーをしています。』
辺りを見回した。
時計台の向かいにあるベンチに1人
ベージュのコートに赤いマフラーをした
愛らしき人がキョロキョロと辺りを見回している。
俺は返信した。
『もしかして、ベンチに座ってますか?』
すぐに返事が来た。
『はい』
俺がそのベンチに歩み寄って行くと目が合った。
愛は立ち上がり頭を下げた。
俺もすかさず頭を下げたが
愛のあまりの綺麗さに動揺した。
茶色い髪のショートボブ
目が大きくて唇は薄く
とても細い女性だった。
初めまして、愛です。
なんか不思議だね。
愛は、子どもみたいに笑う。
俺は少しの間、言葉が出てこなかった。
愛が不思議そうな目で俺を見ている。
あぁ、ごめんごめん
初めまして、大樹です。
ほんと不思議だね。
お腹空いてるよね?ご飯行こうか。
俺たちはまるで恋人のように街を歩く。
まだドキドキしていた。
罪悪感を少しだけ抱きながら。
愛は楽しそうに隣を歩いている。
小さく聞こえる鼻歌は
緊張を解く為なのだろうか?
俺は、そんなことを考えながら歩いていた。
「ここ、予約しといたんだ」
「ありがとう!初めて入るお店だ」
セピア通りを少し離れた所に
Lady birdというフレンチのお店がある。
少し個洒落た、いかにも大人のお店といった佇まいだ。
今日の為に、俺はコースを予約していた。
「ワイン飲める?」
「うん、大好き」
ワイングラスを軽く持ち上げて
初めましてに乾杯と小声で愛が言う。
前菜 スープ サイドディッシュ
メインディッシュ デザートが
食べ終わりを見計らった頃に次々と運ばれ
その間にもたくさんのことを話した。
愛は、しきりに寂しいと言っていた。
結婚してから、旦那の出張が多くなり
ほとんどの月日を1人で過ごすようになったからだ。
SNSサイトを活用し始めたのは
少しでも寂しさを紛らわすだけの
単なる暇つぶしと愛は話した。
「こんなあたしのことを相手にしてくれて、本当にありがとね」
愛は少しだけ潤んだ瞳で俺に笑う。
「俺も、仕事だけの毎日が楽しくなったのは、愛さんのおかげだよ」
この日をきっかけに
俺と愛はちょくちょく会うようになっていった。
最初に抱いていた罪悪感は
すっかりなくなってしまっていた。
愛は俺を求めていたし
俺も愛を求めていた。
愛は俺の家に来るようになり
掃除、洗濯、夕食を作ってくれるようになった。
愛と出会うまで
夜ご飯は大概がコンビニ弁当や外食ばかりだった。
栄養が足りてないから肌が荒れるんだよと
愛は俺の身体を気づかってくれた。
こんな日常が当たり前になってきたある日
愛は神妙な顔をして、俺に話があると言ってきた。
俺には愛のその表情からは
何も汲み取ることは出来なかった。
「大ちゃん、あのね……その……あの……」
こんなに言葉に詰まっている愛を見るのはこれが初めてだった。
「どうしたの?」
愛はしばらく黙ったままだった。
時計の音がやけに大きく聞こえているような気がした。
「赤ちゃんが、出来たの……」
それが、俺たちの間に出来た子ではないことはわかった。
俺たちはそういう行為だけはしないと決めていた。
「よかったじゃないか」
俺は動揺していた。
愛はずっと子どもを欲しがっていた。
これは嬉しいことのはずだ。
なのに、愛の顔には笑顔がない。
俺の顔にも笑顔はなかっただろう。
「ヨカッタジャナイカ」
この時の俺の顔は今でも思い出せる。
自分がどんな顔をしていたのかを。
とても引きつっていて
まともに愛を見れていなかっただろう。
そして、俺たちに終わりが来たことを知らせる合図でもあった。
「今までありがとね…そして、ごめんなさい。」
愛は泣いていた。
その涙のワケは知らないままでいいと思った。
おめでとうと言うべきことに
おめでとうと言えないでいる俺は
さよならを言うにもまだ早すぎる気がした
俺は愛との関係に何を望んでいたのだろう
このままずっと続くはずはないと思っていた
でも、俺は、どこかでそれを望んでいた
愛は既婚者だ。
俺と愛は、バレずに同罪を犯している。
このまま続いていいはずもなかった。
「こちらこそありがとう」
俺にはこれが、愛にかけられる今の精一杯の言葉だった。
Lady birdで食事をしていた時から
愛のことを一気に好きになっていった。
子どものように笑う姿に
誰もが見惚れてしまうその容姿に
大人びた顔には似合わない少しだけ変な声に
料理も上手で本当に気の利く素敵な人だ
俺はそれまで思っていたことを愛に告げた。
愛は、大袈裟に言わないでと
また子どものように俺に笑う。
「ありがとう、大ちゃん」
涙目の愛は、泣いているのに綺麗だった。
愛は、大学時代にミスコンでグランプリを取ったという。
唯一の私の自慢なんだと誇らしげだった。
誰が見ても惚れるだろうと思った。
絶えず声をかけられてたに違いない。
真面目に見えて、だけど話してみると
意外と遊んでいたことも知った。
あの時は浮かれていたと愛は自分で言った。
そういう素直な部分にも俺は惹かれていた。
愛は泣くのをしばらくやめなかった。
寂しい。
しきりに言っていた言葉だ。
俺には、愛のその寂しさを埋められていたのだろうか。
本当は、大好きで、将来を誓いあい結婚した人が毎日家にいることで、その寂しさは満たされていくんじゃないのだろうか。
寂しいと俺に抱きつく愛のその顔が
どうしようもなく胸を締めつける。
だけど、愛は、これから母親になる女性だ。
強くならなきゃいけない。
俺は、愛の肩に手をかけ、そっと体から離す。
これ以上先へ進めないことは
愛が結婚していると告げたやりとりの時から
分かっていたことだ。
俺には何も出来ない、していいはずもない。
愛を強く抱きしめたなら
愛に優しくキスをしたなら
何の抵抗も見せずに体を重ねたのなら
それら全てに意味を持ってしまう。
俺たちが守ってきたものを壊し
欲しがっていた命までも捨ててしまうことになる。
そんな軽はずみなことを
愛にはして欲しくなかった。
また、それを受け入れてしまう愛を
俺は見たくもなかった。
今の俺を保っているのは
俺の中にある強い理性だ。
俺は帰りそうもない愛を横目に
電話をかけタクシーを呼んだ。
愛はさらに泣いた。
俺も泣きたい気持ちでいっぱいだった。
車が止まる音がして窓の外を見る。
タクシーがハザードランプを点けていた。
時間を見ると夜明け前だった。
愛をタクシーに乗せ
お釣りが出るくらいのお金を運転手に渡した。
終わりを告げるかのように
ハザードランプを消し
黒いセダンは走り去っていく。
ポケットの携帯が震えた。
確認すると愛からのメールだった。
『本当に今までありがとう。ご飯、ちゃんと作って食べなきゃダメだからね』
俺は泣いた。
愛との全てが終わった。
これでよかった。
終わりはこれしかなかった。
愛は、愛の帰りを待つ人の所へ
ちゃんと帰らなければいけなかった。
俺の知らない人のところへ
最初から知るはずもなかった人のところへ。
明け方の街は1日を終わりきった表情で
それでいて、眠気まなこな表情で始まっていく。
路肩には、空になったインスタントラーメンの容器や、少しだけ入った缶コーヒー、吸い殻、まさに、【ゴミ】としか呼べない物たちが散らばっている。
早く片付けて欲しかった
この道を見ると
あの日をあの日のまま思い出す
どうせ誰かが片付けるんだろう
気にも留めずに歩ける日を
俺は待ち続けている
メレンゲのLadybirdという曲を
小説風に書いてみたものです。