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希望たり得る人のための日記

唐突ですがうちの本棚の話をします。

ここ最近は暇さえあれば二階堂奥歯『八本脚の蝶』(河出文庫)を再読していたのですが、再読のために本棚から引っ張り出すと当然この記事のヘッダ写真のように隙間が出来るわけです。
で、目を引くその空白を眺めた時に「わたし日本人作家の文庫本で「は」行の作家の本を一冊も持ってないんだな」とふと思いました。

以前「本棚の並べ方どうするか問題」という記事でも書きましたが、今でも文庫本は国内作家の作品と海外作家の作品に分けて、作者名の五十音順に並べています。
ほぼ一年前に書いた上記の記事内にあの頃の本棚の写真を載せていたので見てみたら、当時は星新一の本を持ってたみたいです。少し前に整理しまくって棚一段分ぐらい減らしたので今はもうない状態。
(そして好きな作家が町田康・村上春樹・森博嗣と「ま」行に偏っているのでそっちはとても多い)

「は」行の作家、海外作家の文庫本だと

◆ パウロ・コエーリョ『アルケミスト 夢を旅した少年』(角川文庫)
◆ パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』(文春文庫)
◆ ハリイ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』(ハヤカワ文庫)
◆ バリー・ユアグロー『一人の男が飛行機から飛び降りる』(新潮文庫)
◆ フィツジェラルド『フィツジェラルド短編集』『グレート・ギャツビー』(どちらも新潮文庫)
◆ フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』(創元推理文庫)

といった感じでそこそこ手許に置いてあるのに、国内作家で星新一以外だとこれまで読んだ中でパッと思い出せるのが東野圭吾『歪笑小説』(集英社文庫)を恋人から借りて読んだ)ぐらいというありさまです。
ちょっともう少し開拓できるといいですよね。
蔦屋書店とかみたいに、出版社ごとに分けずに全部ごった煮で著者名の五十音順に並べられている本屋さんとか行けば新しい出会いがあったりするかな。
最近は持ち物を減らしたい欲がつよいので本もあまり手許に置かないようにしているのですが、それでもそういう欲を軽やかに飛び越えて特別な存在になってくれる一冊と出会える事をいつだって期待しています。
今年も濫読を心がけていきたい次第。




そして今日は建国記念の日。
おうちでのんびりしつつ『八本脚の蝶』を再読し終えました。
生きてきた日数よりも多い本を読んで、自らに取り込んできた人の日記。どう足掻いても追いつけないぐらい遠すぎる、燦然と輝く知性のひかりに出会い胸打たれる経験って読書ならではだと思うんですよね。夜空の星々の瞬きが地上で認識する瞬間にはすでに過去の美しさであるように、そのひかりをもう一度見たいという気持ちをもっての三度目の再読でした。急加速する終盤は何度読んでも胸が塞がる。

ところで二階堂さんに多大なる影響を与えた雪雪さんという方が、二階堂さんとの出会いをこんなふうに記しています。

ぼくは現実で見つからないものを本のなかに探して、本のなかにも見つからないもので喉元までいっぱいになっていた。そこにいきなり、本のなかにも見つからないものが、服を着て眼の前にあらわれたのだ。

初めて読んだ時、恋人とはじめましてをした日のことを真っ先に連想して、わたしにとっても特別な一文になった箇所です。
夏の日の朝に呼ばれて振り向いた時の事は心の動きも含めて数秒の映像として鮮明に覚えているんですが、その映像記憶を的確に言語化してもらったような感銘を受けた次第。
光景を言葉にするって普通に考えたら解像度を落とす行為でしかないはずなのに、言葉で表現されているがために受け手の想像力に託され深い奥行きを得る事に成功しているって面白くてすごいことだ。

そういう感銘に出会いたい、って考えると結局はさっき書いた濫読を心がけようっていう結論へと繋がっていく。
と同時に好きな人が好きになった時のままで今この時代を生きている事実に思い至ったりもするのは、好きなプロレスラー達が「いま」を重視する発信をされている事も影響しているんだと思う。
今日は15時から新日本プロレスの生配信があるので、気合いを入れて早めの時間に日記を書いている次第です。試合後はたぶん興奮のあまり語彙が蒸発しているだろうし。
昨日は最高の意地の張り合いを目撃して、画面越しながらも圧倒されたものでした。存在が華そのものの人に焦がれ続けています。幸せなこと。
そんでもって今日の気持ちはこの記事のタイトルに込めました。待っています。