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あの世にさっくり逝けない私たちが老いを前に覚悟しておくこと

今日も元気に不謹慎な話をしていきます。

先日、父の具合が悪くなり病院に運び込まれました。
主治医が、
「延命治療を望まない同意書にサインを」
と言うくらいなので、まぁ、あの世の玄関にお邪魔くらいはしていたのでしょう。

家族一同覚悟をかためておりましたが、しかし、手厚い治療によってこの世にカムバックしてきました。

病院に運び込まれて数日は三途の川を行きつ戻りつ、いつ向こう側に行ってもおかしくないくらいでしたが、退院するくらいの頃には、
「看護師が監視してるから差し入れは隠して渡せ」
などと、要らぬ妄想をたくましくするくらいには回復していたのでした。

きれいな医療施設で最新の治療を受ける父を見ていて最も強く私が感じたのは、
現代ってのは簡単に死ねない時代なんだなぁ
ってことです。

一昔前でしたら、今ごろセレモニーを催して、
「あの人は丈夫だったけど病気には勝てなかったなぁ!」
なんて言いながら親戚一同しんみりしたものでしょうが、まぁ、現代の病院というか医者というか看護師というかはすごいんですよ。

わかりやすく家族に病状を伝え、的確に治療をし、親戚な看護師が24時間見守ってくれるわけです。
そりゃあ簡単に死ねないわけです。

ここまで聞くと良い話のように聞こえます。
当事者じゃなかったら、
「あー、最近の医療って本当にすごい!長生きできて良かったね!」
で済む話ですよ。

ただ、当事者たちからすると
「退院するのはいいんだけど、その後の生活どうすんの?」
みたいな、どうすんの?感が漂う話になってくるんですね。

手放しでありがたいと言える話ではないんです。
残念なことに。

退院後の不安

病気をする前と後とじゃ状況が全く変わってしまいます。

病気をする前は、足腰は弱くなっていましたし、昔ほど活発に動けないけど生活は問題なくできていました。
だから、さほどの不安はなかったわけです。

ところが、退院後はいろいろ考えないといけない問題が出てくるんですね。

たとえば、

  • 買い物どうする?

  • 移動は?

  • 庭の手入れは?

  • 家の掃除は?

  • 通院は誰が連れて行く?

みたいな。

本人は私を含めた家族が身の回りのことをやってくれるものだと思っています。
ただ、運転だけはなぜか自分でする気でいます。
なんで運転だけはできる気でいるのか謎なんですが実際そうなんですよ。

先日、過失運転致死で禁錮刑となっていた飯塚受刑者が亡くなりました。
収監中の老衰です。

社会的地位があり、様々な会の顧問をつとめ勲章までもらっていた人です。
一般的な人と比べてしっかりされていたはずです。

そんな人でもアクセルとブレーキを踏み間違えてパニクっちゃって、誰一人幸せになることのない出来事を起こして、世間から叩かれ寂しく亡くなる、みたいなことになります。

いわんや突発死のリスクを抱えた老人をや。

ところが、「大丈夫」だと言いはるんです。
問題なく運転できる、と。

もう駄々っ子ですよ。
で、その先に行き着くのはケンカです。

「もう好きにしてくれ」と言いたいのですが、本当に好きにされたらやばいじゃないですか。

こんなことを繰り返すとどんな思いになるか分かりますか?

「あのとき静かに見送らせてくれてたら良かったのに」

つまり、医療の充実をうらめしく思うようになります。

マイルド延命治療

医療は日に日に進歩し、人は病気を克服して、より長生きできるようになりました。
昔は助からなかった病気が、今はそうではなくなってきました。

食べ物も昔とは大違いです。
スーパーに行ったら手頃な価格で食べ物がたくさんあるじゃないですか。
外食だって、うまい寿司を腹いっぱいのスシローがあります。
昔は「カウンターで時価」みたいな心臓に悪い店ばかりでしたよ。
怖くて腹いっぱい食べられやしない。

世の中、めちゃくちゃ良くなっているように思います。
栄養状態も良くなって、人が長生きするのは必然のように感じます。
でも、一方で思うんですよ。

なんで、まわりの高齢者世代はある年齢を超えると心身ともに狂い始めるのか。

医療の力で病気は治せるようになりましたが、体の衰えや頭の衰え、あるいは認知の問題は残ったままです。
治すことはできるようになったとしても、やっぱり年をとると体だったり心がおかしくなるんですよね。

でも、体や心がおかしくなってもさらに長生きできるんです。
昔だったらお迎えがくるような病気であっても。

良いことのように思われそうですが、それはつまり、本人や周りが、「狂い」とそれなりの期間にわたって対峙せざるを得なくなるということです。

ここ最近身近で起こったことを思うと、今の日本には、
もう潮時なのに素晴らしい医療のおかげでクソみたいな生活をしている人
が、いっぱいいるんじゃないかと思うんです。

私はそういう状態を仮にマイルド延命治療と呼びます。

延命治療に対する批判はよく見ます。
ただ、それらの批判は「体中に管をつながれて〜」とか「胃ろうが〜」とかマジでハードなやつに対してです。
ですが、実際にはそのようなハード延命治療の人よりも、マイルド延命治療を施されている人のほうが多いんじゃないですかと思うんですね。

多いどころか、大抵の人はマイルドに延命されているんじゃないかと。

病気にかかると医者から病状を説明されます。
治療の方針とスケジュールを説明されます。
たいていは入院して治療です。
退院したら今まで通りの生活はできません。
家族で面倒を見るようにしてください、と説明されます。
家族で面倒を見つつ、通院して薬をもらい治療を続けるとある程度長生きできます。

嫌とか嫌じゃないとかにかかわらず、多くの人が病気を経てそのようになります。

本人にも家族にも治療の拒否権なんてないんです。

病状を説明されているときに、
「いや、退院したらあんまり面倒見れないから治療は適当でいいっスよ」
って言える人っていますかね?

いや、無理でしょ。

このようにしてマイルド延命治療を施されている人が次々に生まれているんじゃないかと想像すると、頑張って働いていっぱい納税をしないといけないなとつくづく思います。

悠々自適という嘘

悠々自適を夢見てきたのにいざ老後になったらマイルド延命治療という現実が待っています。

ふざけんな、悠々自適。

一つ言えるのは、
悠々自適という概念は嘘をはらんでいる、ということです。

今の高齢世代は60歳までしっかり働くと年金がもらえて、医療は充実していて、ゆっくり自分らしい余生を過ごせると思っていたはずです。

実際は、
足が弱って簡単に出歩けないし、気力が落ちて積極的に何かをしたいと思わない、外出するのは病院に行くときくらいで、ぼんやりとした毎日がただ続いている
これが「悠々自適」の現実です。

たぶん、多くの人が想像した「悠々自適」とは異なるはずです。
どうしたらこのクソみたいな「悠々自適」にならずに済むのか。

私たちの親世代の調子がおかしくなったのは、
社会との接点が途切れたタイミング
でした。

仕事をやめたとき
自治会の活動から退いたとき
周りの人たちがどんどんいなくなっていったとき

こうしたタイミングで徐々に体や心があるべき姿ではなくなっていきました。

私は思います。

人が本来の意味で自分らしく生きるには、
仕事をして
コミュニティに所属し
人の善意に頼らず
過ごしていくしかないと。

不都合な真実

簡単にあの世に逝かせてくれない現実を前にして、少しはましに生きていきたいものです。

そのためには仕事をし続けて、嫌な人間関係にもなんとか対応して旺盛に生きていくことが大切だと思います。

ですから、今言われてるじゃないですか。
人生100年時代とか75歳定年制とか。

「そんなに働かせるのか!」
とか
「それに伴って年金受給年齢をあげるつもりだろ!」
という意見はあろうかと思いますが、私はあえて言いたいです。

人らしくあり続けるってのは仕事をし続けるってことですし、世の苦しみを受け続けるってことなんですよ。

そういう苦しさを喜びに変えられる気持ちを持てるといいですよね。


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