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はじめてのnote 自己紹介 | 最近、親世代の調子がおかしい

遅れてきた団塊ジュニア

昭和55年生まれは団塊ジュニアではない。
一般的には昭和46年〜49年生まれを団塊ジュニアというらしい。

私は昭和55年生まれなので団塊ジュニアではない。だが、私の両親は昭和21年〜24年生まれだから、実質的にはジュニアだ。

団塊ジュニアをおおっぴらに名乗るわけにはいかないが、「遅れてきた団塊ジュニア」くらいの呼称は許されるに違いない。

団塊の世代とは

世間にはいろいろな人たちがいて、いろいろな世代がある。
最近はZ世代だ。ちょっと昔はバブル世代とか、新人類なんて呼ばれている世代もいた。

竹の子族とかローラー族はどうなんだ?という話もあろうが、あれは世代ではない。
「族」だ。
つまり暴走族とか農水族とかウータンクランとかと同じであって世代ではないので混同してはいけない。

団塊の世代は日本が最もイケイケだった高度経済成長期に幼少期〜成年期を過ごしている。
高度経済成長期は昭和30年(1955年)〜昭和47年(1972年)くらいまでを言うらしい。

高度経済成長期は団塊の世代がおおよそ小学校入学〜学校を卒業して就職するくらいまでだ。

昭和48年(1973年)の第四次中東戦争をきっかけとした第一次オイルショックによって、高度経済成長は打ち止めとなる。

んで、昭和49年(1974年)の民間消費はめちゃくちゃ落ち込んだ。いや、もうわかりやすく落ちてるのよ。
ここから日本の躍進に少し影が差すがバブル崩壊まで決定的な後退は訪れない。

いわゆる団塊ジュニアは昭和46年〜昭和49年生まれの世代である。
つまり団塊ジュニアは高度経済成長期の最後の2〜3年に生まれたというわけで、多くの団塊の世代の人たちは上向きの時代の中で子どもを授かっている。

そしてバブル崩壊(平成3年)くらいに子育てをほぼ終えている。

・高度経済成長期の終わり(昭和48〜49年):団塊の世代は約25歳 子0歳
・バブル崩壊(平成3年):団塊の世代は約45歳 子20歳

民明書房刊 「戦後80年の歩み」より

さらに、一般的な定年の年齢(60歳)を迎えたのが2006〜2009年くらいである。バブル崩壊から続く低迷の時期を、私たちがまだ失われた10年と呼んでいたころだ。
きたる未来の社会保障は不安だらけだったが、まだ切実な実感はなかった。

つまり、団塊の世代全体としては、日本がイケイケドンドンの時期に社会へと巣立ち、長い停滞(バブル崩壊以後)の前に子育てをほぼ終え、手厚い社会保障のもと、つつがなく老後を迎えたように見えるわけだ。

やっかみの視線とともに。

団塊の世代の調子がおかしい

最近、私のまわりの団塊の世代(つまり親世代)が軒並みおかしくなっている。

ある人は色々患い自らの手で自分の人生を終え、

ある人は入院生活ののちに認知を歪ませて、

ある人は一人暮らしの家をゴミまみれにした挙げ句、恍惚の人になってしまった。

イケイケドンドンで人生を駆け抜けてフカフカの社会保障クッションに守られた幸福な世代というイメージからはかけ離れた話が起きている。

守られている、ということと幸福かどうかは別物だと感じる。

人は老いれば調子がおかしくなっていくもの。
立たない足腰
震える手
ゆがんだ視野
働かない頭
隣の人が誰かもわからない

このような不具合があったとしても心配はいらない。医療が守ってくれる。

本人に必要なのは、
「こういった不具合を許容しつつ、にこやかに人生を終えていく」
気構えだけだ。

でもさ、そんな現実離れした気構えを金科玉条のように思えるのは健康なときだけなんだよね。
あるいは無関係の第三者か。

実際、体の具合が悪くなると不機嫌になる。
外にも出たくなくなる。

実家を覗いてみると不機嫌な老人が自分の体に文句を言いながら大谷翔平を応援している。
それどころか、全国2700万を超える世帯の老人が体や心の不具合を抱えながら、テレビを見て大谷翔平を応援している。
「少しは外に出たほうがいいよ」なんて言うともちろん不機嫌になる。

ファック

人が健康に生きるには長すぎる人生

なんとなくお先真っ暗な今の現役世代から見ると、団塊の世代は恵まれているように見える。

逃げ切ったな、
うまいことやったな、
と。

ところが、寿命が伸びた分、不健康寿命が伸びてQOLだだ下がりの現実がひろがっている。
団塊世代よりも前の世代だったら亡くなっていたはずの人が、数年、数十年寿命を伸ばされて不健康な状態で長生きをしている。

私の父がそうだ。

病気の総合商社

父は昭和23年に生まれた。団塊の世代まっただなか。

普通に生きて、普通に飲酒と喫煙をして、普通に病気になり、団塊の世代よりも少し前の世代だったらすでに亡くなっていたはずだった。

しかし、発達した医療はなかなか三途の川を渡らせてくれない。

少し前に三途の川の岸辺まで行ったものの、最新の医療と1割負担の医療費のおかげで戻ってきた。

「お父さんは**から転移して、**と**に腫瘍があります。血管には**mmの動脈瘤があって、長年の喫煙で肺の機能が落ちていて・・・」
と医者が言った。
まるで病気の総合商社だ。

「これはいよいよか」と思ったのだが、それに続く言葉を聞いてずっこけてしまった。

「きちんと検査をして、治療をすればもう少し長生きできるはずです」

人に売って余るほど病気をかかえながら、まだまだ余力がある、と。
一体全体、どこまで頑張らせるんだろう。
ただし、本人もまんざらではない。

しばらく前に、
「もうそろそろ寿命だし、いつそうなってもいい」
と言っていたが、いざせまってくると怖い。
目の前までせまってきてしまった現実がどうしようもなく怖い。

いつそうなってもいいと言っていた人が、
「きちんと検査をして治療をして今まで通りの生活を送りたい」
と医者に言う。

怖い現実から目を背けられる「治療」を選択する。
というかせざるを得ない。
望もうと望むまいと「治療」以外の選択肢なんて存在しないのだ。

「治療」を経て、いったいその後何を目的として生きるのか。
おそらく、大谷翔平の応援だろう。

何のために生きるのか

そもそも人は何かのために生きているわけではない。生きているから生きている、それだけだ。
ただ、それでは生き抜くことはできない。
そこで目標をつくる。
次のテストで100点を取る、とか。
東京大学に受かる、とか。
手に職をつけて社会貢献をする、とか。

健康でいるうちの目標は第3者から見ていても何となく意味がありそうな感じがする。
だけれども、不健康になると外にも出たくなくなるし、誰かとしゃべるのも億劫だ。
だから、生きることが目標になる。今日生きること、明日も生きていること。
それはそれで本人にとってはいいのかもしれない。
だが、不健康で、不機嫌で、テレビの前から離れようとしない老人を私は見ていたくないし、つながりをかなぐり捨てたいとすら思う。

幸せは得られたのだろうか

そんな一人の団塊の世代を見ながら、より多くの団塊の世代に思いをはせる。
この世代は幸せだったのだろうか、何が幸せなのだろうか、と。

確実に言えるのは、不健康になることはQOLを下げるし、幸せが遠のいていく。もちろん、不健康でもハツラツとした人もいるだろうが、そんなのは少数派だ。

少なくとも私の身の回りの団塊の世代の現実は不健康であって、不健康寿命の引き伸ばしがされていて、ぼんやりと生ぬるい時間を生きているように見える。

それが幸せだと言うのならば幸せなんだろう。
だが、私はそうは思わないから、違う生き方を選択する。

タバコを吸わない
酒を飲まない
体を鍛えて
食を節制する
人には機嫌よく接し
太陽の光を浴びる
テレビを捨て
目標を作り
毎日が人生の一日目であるように生きるのだ

ジーザス、まるでいつか映画で見た地獄のユートピアみたいだぜ。

※タイトル画像は「一人の老人を大勢の医者が治療しようとして追いかけている」のイメージ

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