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ありのままの偽造



ここに記録したくなる時は、
少し疲れている時だと思う。


生きていると、たまに崇拝されることがある。
相手にとって間違いない存在となる瞬間。
その時、彼らはまごうことなき主人公となる。


私は彼らのシナリオのどこに位置するのかというと、そのハッピーエンドに向けて面白おかしい動きで主人公を翻弄する相手役といったところなのだろうけれど、そもそも自分は人に自分の行動の何かしらを決められたり束縛されたり意見されることが心底嫌いなので、もうそのシナリオが生み出された時点(つまりは相手に崇拝された時点)でもう彼らから如何にして逃げるかということしか考えられなくなる。


ここ数ヶ月で3人ほどから逃げ出して、去年はもっと色んな人々から逃げ出して、挙句今は全ての人間関係から逃げ出そうとしている。


私が人に見せるのは、その相手との交流を円滑に進めるための自分であって、それがありのままの自分かと言うと決してそうではないのだけれど、それが常ともなるとある意味これも、この偽造の自分もありのままの自分であるのかもしれない。


人が自分に惹かれることに疑問は抱かない。
偽造されたありのままかもしれないその私は、私が魅力的に感じる人々の要素をふんだんに取り入れているから。そりゃ魅力的にうつることもあろうよと思う。


ただ、私が頭をからっぽにした状態でない限り、そのありのままはあくまでも偽造であるわけで、稀になんも考えずに接してしまって、あーーーやらかしたなと、思いながらも意外と相手は全て受け入れてくれていたりとか、そういった人に出会うとコロッといく。


今いるコミュニティが、私には心底居心地が良くて信頼できる場所なんだけれど、きっと長くは続かないのだろうな、ということが薄らと透けて見えていて、そうなる前に自分がいち早く飛び出してしまおう、と思っている。



この場所では、あの人たちのそばでは、私は頭を空っぽにしていられるけれど、それもいつかは終わるのだろうから、ならば、そこに残されるのは耐えられないだろうから。


いなくなるのは悲しいし、寂しいな。
また会えたり、っていうのとは違うんだよな。

また飲みに行こう、またいつか、また今度。


そうじゃなくて、行ったら居て、居るから居られるような。

そういうものに今は救われているから。


大人はつらいねえ。




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