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 咳が止まらない。
 誰かを真似るように吸い始めて、随分と癖になっていた煙草が原因かと思っていたけれど、咳をした後に決まって喉に残るのは、付けすぎた香水の匂いだった。
 吐きそうなほどに咽せ返っては、何かを受け入れられない自分の身体に安堵するような気持ちになる。
「もう別れたい」
 泣きながら言うその人に、私は気が付いたら馬鹿みたいな量の香水を振りかけていた。
「ごめんね」
 私は謝ることしかできなかった。自分が何をしたいのか、さっぱり分からなかった。甘い石鹸のような香りに包まれて、その人は咽び泣いていた。
 少量であったら清潔感のあるそれも、こうしてみるととんでもない劇薬のようだ。
 ひたすらに咳が出た。嗚咽だけでは止まらず、胃の中にある全てが出ていってしまいそうなほどに咳が出た。
 窓を開け、外の空気を部屋に入れると、雨が上がったばかりなのか、生乾きのアスファルトの臭いが広がった。私の香水の匂いがそれと混ざって、部屋に残ったり外に流れていったりしている。
 私は窓の桟に手をかけ、日が落ちて靄がかかった空を見上げた。
 瞼の裏に幼い頃に見た母の姿が浮かび、眼球が水分を帯びていく。
 母は、大きな黒いファーコートを着ていた。今私の横で蹲っている、白いワンピースを着た人とはまるで大違いだった。
 母は、いつも甘くて強い匂いを纏っていた。出かける母に抱き締められた私は、母を玄関から見送ったその後も、鼻や口の奥の方でその匂いを感じていた。
 私は、私の部屋で泣き続けるその人のことを、愛しているつもりでいた。けれどその人が言うには、私は求めるばかりの態度だったらしく、私はそれを聞いても、私自身が彼女に何を求めていたのか全く分からなかった。
「ごめんね。帰っていいよ」
 驚くように勢いよく顔を上げたその人は、私を睨みつけ、鞄を持って部屋を飛び出していった。
 アパートの扉がバタンと音を立てて閉まり、金属の階段を鳴らす彼女の足音が遠ざかっていく。
 咳をした。私はその、劇薬のような香水の匂いと、外からの湿った空気の中で、内臓の全てを吐き出しても良いと思いながらひたすらに咳をしていた。
 喉が痛み、視界は潤み、最悪の気分だった。台所の換気扇を付け、水道を捻って痰を吐いた。
 私はまた失った。大切だと思ったものを失って、身体に残るのはキツい香水の匂いだけだ。
 瞼が重くなり、心が軽くなるのを感じる。
 あのファーコートと共に消えた母のことを思い出しながら、私はベッドに倒れ込んで、咳をしながら目を閉じた。涙が流れ落ちる頃には、意識はもう夢の中にいた。
 私の鼻も喉も心も、このまま死んでしまいたい程に満たされていた。

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