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その余白
新宿駅から都営大江戸線新宿西口駅へと地下道を進んで、改札入ってすぐのところ、鏡があると思って目を向けた壁が、私の歩みに合わせて青い壁になっていってとても綺麗でした。
時間がある時、なるべく水曜に映画館に行くんですけど、水曜に行くのは安くなるからなんですけど、そうと決まっている日は、早起きも会社も映画までの待ち時間も帰り道も、全部が特別なものに感じます。
熟考するような事柄は、対面で誰かに正確に伝えるのが難しく、文章という術を私はついつい選んでしまいますが、映画館で映画を観るということは、私には、日記や手紙を書いたり、読んだりするのとよく似ているように思えます。
そうしている時間、そこに居る時間だけは、私と、向き合いたい事柄だけに集中できる。
言葉というのは不思議なもので、連ねているうちに頭では思っていないようなことがすらすら出てきます。
文章の好きなところは、書いて、消して、また書いて、考え直せるところです。
一発で想いを表せたら、そりゃとてもとても凄いことですが、私には出来ません。
物事を、いちいち深く考えていると、考え過ぎるなと言われますが、それも私には出来ません。
映画は、私じゃない人が想像した映像なので、私の頭では考えていないことがすらすら出てきます。知らない誰かの想像に引っ張られて、色々なことが浮かび、流れていきます。
私にとっては、今こうして文章を書いているこの瞬間とよく似ている。
どうしてもあれこれ考えてしまう私にとって、まるで私一人ではないようなこれらの時間は、けれど確実に私に対して向けられる悪意が存在しないこの時間は、大事な大事な余白なのです。
その余白は、私の中の色んな私を、波のように攫っていってくれるのです。
一人で映画館に足を運ぶ人たちのことを、昔はかっこいいと思っていました。でも違いましたね。これは、どうしても必要な時間だったんですね。
ヘッドフォンや、イヤフォンを付けている時に、音を流さずにいることがよくあります。
誰にも触れられたくなくて、誰にも触れたくなくて、それでも孤独にはなりたくないからです。
いつの間にか10月になっていて、私は最近物凄く線香花火がやりたいのに、中々何処にも売っていませんでした。普通にAmazonで買うことにしました。
余白を増やしていくと、そこから新たな自分がまた、勝手に生まれてきます。
一人とは、私と私の、二人のような一人なんですね。不思議ですね。
邦画、素朴で平坦でつまらないとよく言われているけれど、絶対に無くならないで欲しい。
映像、光、沈黙、人の声、音、文章、言葉、その余白に涙し、それが無いと生きていけない人も居ます。
声の小さな人達の大切なものが、淘汰されていく世界にだけはなりませんように。