遠かろうとも近いもの
愛と恋。
私の中では明確に違っていて、全くの別物です。
相手の為に自分を変えられたり、相手の感情や状況を最優先にして、自分の気持ちを混同させずに居られること、強引にも、我儘にもならず求めない、相手を疑い試したりもしない情感を愛だと私は考えています。
対して恋は憧れと呼ぶに相応しく、そこには己の理想や欲望が強く影響しているのではないかと常々感じています。時にそれが起爆剤となり、後に愛へと成長する場合もあるかとは思いますが、ここで言う恋はそうではないものを指します。それはある種、執着です。恋という理想への執着。それに充てがわれるのがどんなに苦しいか、最近よく考えるのです。私も過去誰かにそれを強要した記憶があります。最低なことをしていました。
異性間だろうと同性間だろうと、それが友情と呼ばれるものであろうと、今私は恋を求めてはいません。
本当の私はそこに居らず、尊重されていないから。
誰かに何かの話をする時は、ゆっくりと言葉を選んで、正しく相手に伝えたい、理解してもらいたいと思って話をします。ここにある文章も同じです。
けれど、それは多くの場合、素直に読み取られていません。相手の中で無意識に変形しているのです。恋がより一層色付く素材として。
現実におけるドラマチックな場面とは、理想に寄せて演出を加え作り上げるのではなく、振り返った時にまるでそのようであったと胸を熱くするものだと思うのです。
早い話が、私はその理想によって作り上げられた戯曲に沿ってヒロインを全うする女優ではない、ということです。
私は一人間であり、現実を生きているのです。
数十年と想い続け、けれど欲望に任せて行動を起こすこともなく、ただただ黙ってその人生の幸福を祈るような、そんな愛に再会しました。それは罪悪感や、自責の念があってこその遠慮なのでしょうけれど、私には何より深い愛に思えました。
再会、と表して正しいのかな。
知らなかった、とはまた違うんです。
答え合わせをした、と言うのでしょうかね。
きっとそうなのだろう、という期待が、現実のものであって安堵したといいますか。
とにかく自分も、どんなに望んでも手に入らないような、お金では決して買えないような幸福を自然と手にしていたのかと、胸がいっぱいになりました。
これだけを大事にしたい。自分と誰かの間に産まれる、このような感情を宝物にしたい。
それは逆らい難い奇跡に近しいものです。いくら遠く離れて逃れようともそうはいかず、どうしようとも互いに近くあり続けるもの。
誰かに愛された記憶は、いくら私が生涯独身であろうとも、私を孤独にはしないでしょう。その相手がこの世から亡くなろうとも、私が消えて失くなるまで、そこにあり続けるのでしょう。
自分をより一層、信じられるようになりました。もうきっと大丈夫だと思います。
私は幸せです。
私に恋は必要ないのです。
少なくとも、今の私には。
己の悪いところがでて、またいつかそれすらも不要なものだと切り捨ててしまうのではないかという恐怖はありますが、愛とはこういうものであると、今ならば胸を張って説明できます。
10年後も自分で居られるよう、この努力を続けなくては。
どうか私が私と向き合い続けることを、尊重してもらえると嬉しいです。
こうなった私はこれから何を考え、何を書くんでしょうかね。楽しみです。
なんちて
愛と恋の話でした。
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