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 苦労らしい苦労はしたことがなかった。僕はきっと、運が良い。彼女に出会わなければ、そんな風に思うことはなかった。僕は僕の日々が尊くて、決して簡単には手に入らないものなのだろう、ということに自分の力だけでは到底気が付かなかった。
「今日は紫?」
 彼女の腕はいつもカラフルだった。赤、紫、緑、黄色、肌色。大体はその色を、さまざまな箇所で繰り返している。
「そう。こっちに赤もあるよ」
 肌色は白に近くて、絵の具をのせたキャンバスのようなその腕は、異様に細くて骨張っていた。
「出来立て?」
「そう」
「痛い?」
「綺麗でしょ?」
 カラフルで、色とりどりで、鮮やかで、可哀想な身体。可哀想な彼女。僕らの周りの大人たちは、こぞってそれを無視し続けていた。狭い世界だった。僕らが世界をほんの少ししか知らないのと同じように、大人たちも、自分の周りのほんの少しの世界しか見ることができないのだった。だから、余計な事はしなかった。自分の世界を守ることに、精一杯だったのだと思う。
 彼女は僕の前では泣かなかった。泣かなかったけど、度々怒っているようだった。
「君は幸せ者だよ。それに自分では気が付けない。それが君が、本当に本当に幸せな証拠だよ」
 どういう意味なのか分からなかった。
 夏休みに僕は、彼女が勧めてくれた映画や本を片っ端から読んでみた。それが全て、ちっとも意味が分からなくて、けれどなんだかとても悲しい気持ちになる話ばかりだった。それらは、彼女そのものみたいで、僕はそれらを理解出来ない自分が情けなくて、不甲斐なくて、それでまた凄く、悲しい気持ちになった。
 僕はずっと、彼女が気になって気になって仕方なくて、遠くから見てみたり、たまに話しかけてみたりした。いつしか僕は彼女の美しいその色が消えてしまわないことを祈るようになった。彼女も周りと違う自分を大して気にしてはいないようだったし、ずっとそのままでいて欲しいと願うようになっていった。
「ねえ、そんな色してて恥ずかしくないの?」
「綺麗な色?」
「綺麗、というのは少し抵抗があるんだけど」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「なんで恥ずかしいと思うと思ったの?」
「だって目立つでしょ。みんなと違う」
「じゃあ、君が上書きしてよ」
 僕はその日、彼女の身体をいろんな色の絵の具で塗り潰した。腕だけじゃなく、顔も制服も、足も全部、カラフルに塗りたくって自分の絵の具をすべて空っぽにした。
 彼女はずっと笑っていて、僕にはそれがとてつもなく美しいものに見えて、涙が出そうになった。彼女に勧められたものを理解はできなかったけれど、きっとこれからも理解できないけれど、それを知れたことが何よりも尊く感じられた。
「それで帰るの?」
「うん」
「怒られるよ」
「いいよ」
「僕も一緒に行こうか」
「ううん、いいの。ありがとう」
 絵の具でドロドロになった彼女は、どれが元々の彼女の色なのかもう分からなくなっていて、けれど僕が今まで見てきた彼女の中でやっぱり一番綺麗で、彼女は笑って手を振ったあとそのまま僕に背を向けて、それ以来僕は彼女のあのカラフルな腕の色を見ることはなかった。
 彼女はその日、あの絵の具塗れの身体を、何処かへ投げ捨てて消えた。それは、彼女から僕への最高のプレゼントだった。
 ずっとそれに縋って、ずっとそこに縛られ続けて、僕が彼女をカラフルで綺麗だと思っていた頃のバカでカスでクソほど無力の僕で居続けられる、そういう呪いのかかった、最高のプレゼントだった。
 僕は、運が良かったんだ。

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