「勉強する」と「勉強した気分になる」の区別
美樹さん、あなたは彼に夢を叶えて欲しいの?それとも彼の夢を叶えた恩人になりたいの?同じ様でも全然違う事よ。
... 『魔法少女まどか☆マギカ』第3話「もう何も怖くない」より引用
勉強会に行く者は単に"勉強した気分になっている"だけであり、勉強会で登壇する者こそが"勉強している"。登壇者側にならなければならない...のような話はよく聞きます。
勉強することが目的であれば、ただ座って話を聞いているだけよりも、自ら考え、手を動かし、誰かにアウトプットしようとする事の方が、身につくモノが圧倒的に多いのは明らかです。実際にやる事は似ていても、目的が自己研鑽にあるのか、それとも欲求を満たす事にあるのかで、その結果は大きく異なります。
では「勉強した気分」というのは必ずしも無下にされるべきものでしょうか?
人間は自然な状態においては楽な方に流れていくように行動します。「勉強する事」よりも「勉強した気分になる事」のほうが自然な状態だとすれば、何も意識しなければそういった行動を取ります。
その「勉強した気分になる」方に動くエネルギーを上手く利用することができれば、勉強することにも良い作用をするのではないかと思います。
読みたくない本の読み方
たとえば、私は性格がひねくれているので、人に勧められた本を読むのはモチベーションが上がらず、どうにも苦手です。そんな"読みたくない本"を読むときは、本に付箋を貼りまくったり、マーカーで線をやたら引いてみたり、自分で要約文を書いてみたりします。要約文も、PCを使わず手で書きなぐります。
すると、半分も読み終わっていなくても付箋だらけになっている本を見ると、なんだか勉強した気分、知的好奇心が満たされたような気がして、後半のモチベーションも上がっていきます。手で走り書きした要約文を見るとなんだか頑張っている気分になって、最後まで読めるような気分になります。何もしなかったら途中で読む気が失せて投げ出していたかもしれませんが、1冊読み切ることができます。
「勉強した気分」を上手に満たしてモチベーションをコントロールすると、今まで効率よくできなかった「勉強」もはかどるようになると思います。「勉強した気分」になっていて満足しているのはあまり意義のある活動とは思いませんが、「勉強」を進めるために「勉強した気分」を程よく刺激することは有益な事ではないかと思います。
「勉強した気分」を刺激するために私がしていることの例:
・本に付箋をたくさん貼ったり、下線をたくさん引く
・タスクを細かく細分化して、ひとつでも多く潰す
・PCを使わず、手で文字を書く
・人に教えたり、こうしてブログを書いたりしてアウトプットする
・Twitterやfacebookでドヤる
まず「勉強」と「勉強した気分」を切り分けること。欲求を刺激してモチベーションをコントロールし、最終目的である知見の獲得・自己の研鑽に高い意欲をもって実現する事は、効率的に学ぶ方法のひとつなのではないかと考えます。
あなたは彼に夢を叶えて欲しいの?それとも彼の夢を叶えた恩人になりたいの?
冒頭で引用した巴マミのセリフは、さやかちゃんが「他者の幸せの実現」と「自身の願望」とを混同している事を指摘した鋭い一言です。印象的な割には劇中あまり掘り下げられる事なく完結し、劇場版ではカットされます。ですが、その後にさやかちゃんが辿った結末を思えば、物語の核心を突いた一言である事には変わりありません。
手段と目的を取り違え、魔法少女の契約によって自身の欲求が実現しなかった結果、その絶望を死として無情に突きつける血も涙もない設定です。「勉強した気分」という欲求に走って勉強会に参加するばかりで、結局なにも得られなかった者の末路を示唆している...かもしれません。
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