Compathとは、何なのか?
先週は8日間、北海道の東川町で過ごした。
前半はひたすら地元の人と農作業をともにし、後半は全国の実践者と集う時間。
合間にリモートで仕事もしていたので、飛ぶように毎日が過ぎていったが、
帰ってきてから気づいた。
「どうやらあの場はとんでもなく、心理的安全性が高かった。」
”心理的安全性”という言葉が敢えて使われるような場にいるとき、
わたしはカナリの確率で居心地の悪さを感じている。
誰もが微笑み、優しいトーンで、他人の話を面白いと思おうと思わまいと、さも興味ありそうに、頷きながら聞いている。
「嘘やろ。」と言いたい。
子どもという存在が好きな理由の1つは、嘘が少ないからである。
小さいうちから大人の顔色を読むのに慣れている子もたくさんいるが、
それでも隠しきれていないことが多く、信頼できる。笑
そんな子どもという存在も手伝ったのだろうか?
解散まで20時間切ったようなタイミングで爆弾発言を聞く。
「わたし、ぶっちゃけ今日のワーク全然楽しめなくて」
あるワークを振り返るときに、主催者側(そのワークでは企画者ではなく参加者)から出た発言。
そしてその発言を皮切りに、続く同様の発言、、、
思わず企画者たちの表情をうかがってしまった。
その企画者たちの名誉のためにも伝えておきたいのだが、
実はわたしを含め、別チームのメンバーは、そのワークを普通に楽しんでいたのだ。
むしろ楽しんでいないチームがいるだなんて思いもしなかった。
その対比があまりにも鮮やかで、その振り返りが鮮烈な記憶として残っている。
(※2チームで大きく条件を変えたわけではない)
よくある心理的安全性大事”風”な場では、
「勉強になりました」とか、「企画ありがとうございます」とかの言葉が並ぶ。
もちろん本当にそう思っている人もいるだろうが、
数十人いてそんな言葉しか返ってこないようなら、
逆にその場でホールドできる内容がその程度なのだ、とわたしは思っている。
逆にこの合宿の場では、ネガティブなことを含めてちゃんと感じ切って、正直に場に出した人がいて、
それを真摯に受け止め切った人たちがいた。
マジですごいなと思った。
それをきっかけに、身体や気持ちの調子のことを、
みんながより素直に表現できるようになった気がする。
2年前の9月、Compathのミドルコースにて、
「優しいだけの場はわたしにとって安心安全じゃない!」と訴える子たちが出てきたのを思い出す。
「話すのが苦手な子に配慮するだけが安心安全なのか?それでは言いたいことも言えないじゃないか!」
という趣旨の激論が交わされて、メチャクチャ楽しかったのを思い出す。
4週間のコースの3週間目のことだったっけ。
実践者合宿は、とんでもなく場慣れ・対話慣れしてる人の集まりなので、
それもあって超高速で”心理的安全”モードに突入できたと思うが、
普通に見知らぬ人たちが集まったとき、そこに至るのは中々に難しい。
Compathが何なのか、そんなことはわたしにはわからないが、
一定期間寝食をともにするということを通じて、
表面的な心理的安全ごっこを超えて、
何か違う世界を見に行くことなのではないかとわたしは思う。
1人で旅をしていても、出会えない何か。
Fast alone, far together. という諺が思い出される。
9月の北海道は、”夏”が一気に訪れる時期。
夏野菜も一気に実る。
(ちなみに、あじさいからコスモスまで、みんな一気に開花する笑)
2年前にいただいた朝採れとうもろこしがまた食べたくて、
一面に咲いたソバの花が見たくて、早くも再訪したくなっている^^
2年前の記事も残っていたので、気になる方はどうぞ♡
<おまけ>