波に枕し、国映館で口すすぐ

まだ肉は煮えていない

浦添の台所で三枚肉を刻んでいる。台湾から来た流浪二人組と一緒に、オーダーと少しずれたサイズできた三枚肉の細切れを魯肉飯仕様に切り替えている。2時間ぐらい黙々と肉を切り、その後は沖縄で調達する食材、器具諸々を慌てながらかき集め、ギリギリ間に合うかどうかの線まで来た。日を跨いだら明日は波フェスで、この即席チームで魯肉飯を売る。あんまり把握してなかったけどタピオカミルクティも売る。
無茶だなぁ、と思いながらいつも通りその無茶をヘラヘラしながら楽しんでいる。ヘラヘラ楽しめる位置から基本的には関わっている。およそイベント前というのは無茶の連続で、主催者とかはもっと無茶苦茶なんだろうな、と安全な場所から手を貸しながら横目で見る。客よりは内側の、ちょっとした座敷席みたいなところを確保するやり口である。今回は座敷席で肉を炊いて、勘定まで取ろうというのだから大したものだ。さらにもう一歩、踏み込んで席を取るには勇気がいる。責任も生じる。面倒くさがりで飽き性な自分はそこに行かない方がいいと思っていた。翻って映画にしても

(前回の流れ。ここでも似たことを言ってるよ)
https://note.com/s105015013s/n/n3791fc44e098?sub_rt=share_h

責任を取って、覚悟を決めて、チーム一同突き進む、みたいなことは無理なのである。とりあえず思いついたアイデアを企画にしたり、筆が進めばもう少し物語として提示したりしながら、のんべんだらりと製作や配給に携わっていくのが一番の平和だと考えていた。

波フェスは朝から晩まで魯肉飯を売った。期待ほどではないしても、それなりに売れた。知り合いも来たりして店を離れられなかったが、流石に最後だけライブを見た。NeonOasisブースでタオルをもらった。RITTOさんと728とPinkChainの共演ライブに感慨深さだけ覚えている。疲れ切ってはアフターパーティに繰り出す体力も残っていなくて、開南の会社事務所で休んだ。浦添まで原付きで帰る気力もなかった。728から電話があって、何やらトラブルめいた予感を察して、モンスターを飲んで久米に向かった。トラブルはあるにはあるが、放り投げられる類のものだったので、728と一緒にラーメンを食いながら、あーだこーだと今後の展望などを話す。次は1月のNeonOasisだな、なんて言いながらさ。ばったり会ったRITTOさんに「今度映画出てください」ってこの時はまだ軽い感じで言ったりして。ひとまず打ち寄せる波はまた沖に引いていった。

波フェスに前後してTOKYO DOCSっていうドキュメンタリーのピッチングのために東京出張があったり、その合間で助成金の申請準備したり、のんべんだらりという割には小忙しく製作仕事をしていた。せっかく配給した『沈黙の自叙伝』に手も回らなくて(ごめんねマクバル、ちゃんと今年営業するから)悲鳴が上がる感じで、一方映画祭に目をやると何だか大丈夫じゃなさそうな気配がする。
映画祭はずっと杞憂だった。理事がそんなこと言うもんじゃないけど、この規模感は良くない博打だと思っていた。集まった作品は素晴らしく、いま沖縄で公開することに意義のあるラインナップだ。しかしこれを回し切る体制を整える前に、見切り発車だなぁとずっと思ってたし黄さんに言ったりもした。もちろん初回であるし走りながら体制を整えたり次回以降を見据えた「必要な苦労」が大事なのも重々承知している。ああ、こういうイベントいつぶりだろうか、と思い返す。雰囲気は前島アートセンターがあった頃のWANAKIOとかあんな感じ。国際色豊かで、沖縄で行うことに対してのステートメントや立て付けをカッチリする。その上で地元と絶妙な距離感がある感じ。現代美術、こと地域とアートみたいな話もあるけどひとまず、銀天街でやるアートイベントとも違った距離感と温度感。銀天街の場合もはや最終的に美術であることすら鑑みない程度に「地域」に飲み込まれて、自分はそれが愛おしかった。
しかしひとまずそんな2000年代後半のアートイベントも自分の席は銀天街でせいぜい砂かぶりだった。前線で斬り結んでるのは僚児さんや千夏さん、平良さんたちだった。前島なら岡田さん。ちょうど一回りぐらい上の人たち。自分はもっと銀天街でボロボロになるまで他人や本当に理解できない何かと向き合うべきだった。そのせっかくの機会をふいにしてしまった後悔がある。後悔を後悔のままにしないために台湾に行ったり、銀天街に戻って壁画を描いたりした訳だけど、二十歳前後で付いたそういう気持ちは簡単に拭えるものではない。一度銀天街を離れてみようと思って行った先がナハウスで、果たして楽しい日々、かけがえのない瞬間に立ち会えた幸福な時間だったが、やはり自分の器量なしや打ち明けられない性質が色々なものを台無しにしてしまったのではないだろうか。
気の重さを感じながら、一刻と映画祭の初日は迫ってくる。よくわからない状態で別れた感じになってしまった元恋人との間に生じるはずの気苦労もあるし、おおよそイベントを主催側で迎えられる精神状態も体力もないが、乗った船からは降りずに出航した。

肉は内側からじっくり焼いたほうがいい

自分はよくよく愛想を尽かされる人間だ。考えのなさをちょっとした知識でごまかしたり、幇間のようにヘラヘラと他人に取り入って、自分の器量に似つかわしくない場所に陣取っている。確たるものなしに世間を渡ってしまった。紙一重でもっとだいぶ落ちぶれていたはずだ。悪運に生かされている。一途なところというか、際限のない所有欲とその反動から来る放任主義のようなものがあって、恋人になった人間にあまりいい思いをさせずにいた。「あなたは私の所有物ではないので、誰かと寝てしまうことがあっても、どこかに行ってしまっても構わない」とうそぶくのだ。うそぶくから、愛想を尽かされるのだ。しまいには「別れ話」さえできなくなってしまった。ここにきてようやく自分の底の浅さに戸惑った。戸惑うことに戸惑って、いつものようにまずは冷静を装った。内心はもっと憎しみとか哀しみとか、冷静の真逆がうねっているだろう。それを吐露する相手もいない。それは誠に不幸で孤独なことだ。しかし不幸で孤独なことこそ強さの糧だと思う節もある。本当に一人ならいいが、その態度だといよいよ周りに迷惑を掛けるのではないかい?いや既にだいぶ掛けているが、取り繕ってきたんじゃないかい?

はい、そうです。

映画祭の前々日ぐらいから眠りが浅かった。なんとか開催はできそうだ。というか気づいたら初日が来てしまった。自分はレッドカーペットの音響を調達して、そのままタイムスホールで初回上映を迎えた。越川道夫監督の『水入らずの星』。この上映がワールドプレミア(世界初上映)で、その舞台挨拶の司会は何故か自分で。まだ映画祭が始まった実感も、責任感もない。漠然と、わざわざ来てくれた主演の河野さんに恥かかせないようにしないと、という義務感だけがあった。一応事故無く舞台挨拶は終えられた。そのままセレモニー会場のホテルコレクティブへ向かう。
ああ、今回はだいぶ前列の席を取ったなぁ、と思いながらホテル前でレッドカーペットの音響を設定していた。マイクを繋ぎ、急場でセレモニー用のプレイリストを作って流す。三日前ぐらいから徐々に点火してきた各種トラブルも、御用聞きのように間に入ったりしてやんわりシューティングしていた。前線の一歩後ろ。これはいい塩梅。まぁもうちょっと深刻なトラブル起きたり、責任被ることあってもいいかな、ってぐらいには楽しめそうだった。理事だからはじめから責任は被らないといけないんだが。

理事、NPOの理事、そういえばティトゥス先生も上村先生も前島アートセンターの理事やってたな、とふと思い出した。というか目の前にそのティトゥス先生がいたので思わざるを得なかった。
オープニングパーティは盛況だったらしい。らしいというのはここでも得意の式典イヤイヤ病が出てしまい、授賞式とか演目が終わるまで踊り場でシャンデリアや水場を眺めていた。
終わった頃に、流石に腹も減ったので会場に入ると、先生は背が高いのですぐ分かった。適当にオードブルを食べながら「先生、やったよ、10数年経ってさ、僚児さんとか潤さんとか上村先生がやってた苦労やってるよ!文化のためにさ!ってか遂にさ、なんか自分たちの番が来たよ。これからだよ、沖縄の映画も美術も。ようやくだよ、勝負だよ」とこんな調子で舞い上がっていた。心底のつっかえがほぐれた。ああ、これだ、初心だ。初期衝動だ。別にさ、野心とかあっていいんだよ。素直にこういうことしたいとか作りたいとか言ったほうが周りも却ってやりやすいんだよ。いままで「誰かの映画を手伝う」ってばかりで「自分で映画を作りたい」って思ったことなかったけど作ればいいんだよ。そりゃ作るだけで人がたくさん関わるから小説や詩とは別だけど、その苦労ぐらい受け入れるよ、もう。
会場には当たり前のようにたくさん人がいて、先生以外もぼちぼち挨拶とか世間話とかしたけど、妙な気まずさを覚えているその人とは目も合わせなかったのは大人げないなと思い、翌日話しかけましたとさ。

映画祭は、まだ初日が終わったばかり。まだまだこのあと予期せぬこと起きまくりで心身ともにバーニング。

まだつづくよ

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