マッチングアプリの純真

ゆいレールのホーム、ベンチで肩寄せあって「またね」とお別れ。
駅から降りて着信音、ほかの人から「明日どうする?」
私たちは皆シングルで、ダラダラと恋人候補を見極めてる。
恋人候補たちには別途複数の恋人候補がいて、場合によってはセフレとかもいて、その人間模様を図解にすれば『百年の孤独』の相関図のようになる。
そんな大層な孤独に耐えられない私たちは今日も会う。明日も。明後日も。
私はひたすら色んな人に会ってみたかった。マコンドの住人になりたかった。人間関係は仮想ではない。ジプシーの女がいう「マッチングアプリの必勝を得たのならば、もっとぬかるんだ人間関係の悩みの坩堝に陥るだろう」
私は忠告も聞かず坩堝の底を這うつもりだった。

1.プロフィール写真

 私たちは少しでもよく見られたい。背は高く、筋肉や胸は景気よく盛り上がっていて、しかし身体つき全体はシャープで、顔立ちは適度なサイズのパーツが適度なコンポジションに支えられていたほうが魅力的だと刷り込まれている。身なりは清潔感があり、髪型も整っていたほうがいい。
 撮影にも気を払い、照明は少なくとも二方向から当てられる。一枚目の写真はハイライトで笑顔が弾ける。二枚目はシャドウ強めで物憂げな表情を浮かべている。三枚目はオフショットといったところ、部屋でくつろいだり、お菓子を頬張ったり、公園の遊具にもたれたり。
 自分を客観視などという生やさしいものではない。自分を商品だと思い込む覚悟がいる。商品の写真に安い画像加工アプリを使うのは愚かだ。私たちの眼は肥えすぎた。加工アプリの仮初めの補正には違和感の方が大きくなり始めている。しかし商品である私たちは選ばれるためなら手段は選ばない。その焦りが素肌がはだけたような自撮りや単なる肉と肉の切れ目に過ぎない谷間のような写真を生み出す。強迫に駆られて、精神を病むものも耐えないという。病んだ商品は容赦なく廃棄される。
 ゴミにも一分ある。思い切って素顔のままを晒してみると、案外に屑屋が拾いに来る。屑屋の清兵衛が引き取った屑を籠に入れて歩いていると細川屋敷の家中のものから声がかかり、屋敷で殿様の御前で改めてみると屑の中から50両出てきたという。代わりにもらったボロの茶碗を磨けば国宝だったということさえある。分をわきまえて着飾るのが一番かもしれない。
「磨きすぎるのはよそう、また小判が出るといけない」

 やっぱり私たちは少しでもよく見られたい。背は低くて、丸みを帯びたフォルムに、眼も鼻も丸っこいほうがいい。身なりも髪型も盛り盛りカラフル、かわいいは正義。弱さも醜さも飲み込む究極美学。性別だって飛び越えられる。ラブリーに生きて、ラブリーに死ぬ。かわいいは覚悟。かわいければ他人の評価なんて気にしない。

2.プロフィール文

 私たちは己が何者であるのか、書くことを強要されている。むごい。しかし場合によっては文章は写真よりも自由だ。物は言いよう、が幅を利かせる世界だ。ある批評家はマッチングアプリの中で生じるリアリズムが近代文学とあまりに乖離を見せていることを指摘し、その世界観は”マジックリアリズム”と呼ばれるようになっていった。

 ”その村では人口よりも医者の方が多いという。そして急騰しすぎた給与によりインフレが起こったらしい。また栄養状態が良いのか村の男たちの平均身長は2メートル近くなり、女たちはまるでカボチャのような胸をぶら下げていた。村人は高いところに住みたがり、天を穿つような高層住宅を立て続けた。やがて太陽に触れようとして村ごと燃え尽きた。”

 かの世界の一端である。他にも例えば不意に紛れ込んだ手練れの男や床上手の女が王国を作ったこともあったという。その王国では近親相姦を禁ずるために知り合いを無視するお触れがあり、破ったものは追放されたという。私を諌めたジプシーの女も追放者だった。全てが伝聞か想像か定かではない。「村の男たちはやる気に満ち溢れていた。ただそれだけだった。時おり家畜と見間違えることがあった」
 気に入られるといいねと言ってもらえるが所詮気休めだ。村人は快楽を追い求めるがそこに快楽はない。
 このアプリの最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる。


「明日さ、飲みに行かない?」さっきの人からの返信が来る。
「うーん、どこがいいかね」
「とりあえず19時県庁前集合にしない」
「了解」
私はみすぼらしく、間抜けなプロフィールを晒しながらも明日まで生きながらえる。

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