基本的帰属錯誤 「これこそが原因だ!」と決めつけやすい西洋人【心理学】
以前の記事で、東洋人は後知恵バイアスに陥りやすいことを紹介しました。
東洋人は、後知恵バイアスに陥りやすい。すなわち、過去のある出来事について、①「あれは必然的に起きたことだった」とか、②「あの結果は簡単に予想できたことだった」などと決めつけてしまいがちです。
他方で、西洋人の方が陥りやすい認知の歪みもあります。それは、「基本的帰属錯誤」という誤りです。以下、解説します。
◆
1 基本的帰属錯誤とは
基本的帰属錯誤とは、「環境の影響力に比較して個人的・傾向的要因の重要性を過大評価する一般的傾向」とされている。この錯誤の問題点は、状況要因の軽視につながるところにある。
そもそも西洋人は、世界を明示的な因果モデル的に見る傾向があるとされているのだが(分析的思考様式)、その副作用ともいえる現象である。
2 態度帰属の研究
このバイアスを世に知らしめた代表的な実験は、1967年に社会心理学者のエドワード・E ・ジョーンズらによって発表された。
この実験の参加者たちは、ターゲット学生たちによって書かれたという原稿を読まされる。その原稿には、キューバのカストロ政権を支持する内容が書かれている。
ただし、参加者たちには、「ターゲット学生は、あらかじめ決められた問題について、決められた意見を支持する原稿を書くように依頼されている」と伝えてある。
その上で、参加者には、「ターゲット学生の本当の意見(態度)はどのようなものか?」を推測してもらった。
先述した通り、ターゲット学生は、どのような原稿を書くかを事前に「依頼」されていた。すなわちここには「依頼」という状況要因があるわけだ。
しかし、アメリカ人参加者たちは、ターゲット学生がカストロ政権を支持するという原稿を書いてさえいれば、ターゲット学生の「本当の態度」もまたカストロ政権を支持するものであると考える傾向があった。「依頼」を受けて書いたという状況要因は無視されていたのである。
同種の実験を中国人、日本人、韓国人といった東アジア人に行った結果、そこでもまた「依頼」という状況要因の無視は認められた。基本的帰属錯誤というバイアス自体は、東洋人・西洋人に限らず存在する。だが、西洋人の方が状況要因を無視しやすいということが別の実験で明らかになっている。
そちらの実験では、韓国人とアメリカ人が被験者となっている。最初に実験参加者たちに、決められた立場で原稿を書くよう依頼し、執筆をする経験をさせる。あらかじめターゲットと同じ立場に立ってもらうわけだ。
続いて、あなたと同じように、決められた立場で原稿を執筆するように依頼された者が書いていると伝えた上で、ターゲットの原稿を読ませる。そして、ターゲットの本当の態度を推測してもらう。
韓国人たちにおいては、バイアスは消滅していた。ターゲットも自分たちと同じく、決められた立場で依頼された原稿を書いただけであるから、原稿内容と同じ意見をもつとは限らないと考えたのだ。
他方で、アメリカ人たちにおいては、こうした手続きをとってもなお、バイアスは消滅しなかった。自分も同じ立場に立ったというのに、ターゲットは原稿内容と同じ意見をもっていると考えたのである。
【参考資料】
リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳『木を見る西洋人 森を見る東洋人』ダイヤモンド社 2004年 142-143頁
本人が自由に選択できないと分かっているのに、それでもなお原稿内容を本人の「本当の態度」として帰属させるのは驚きである。実験の方法に不備があるのではないかと疑う研究者たちは、条件を変えつつ、さまざまな方法で実験をし直したが、いずれにおいてもバイアスは確認されたようだ。
3 状況要因の無視・軽視と、「包括的世界観」の関連性
東洋人が後知恵バイアスに陥りやすい理由は、状況要因を重視しすぎるためであるが、他方で状況要因を軽視する西洋人たちは、物事を単純化し、いくつかの「個人的な要因」や「傾向的な要因」を過大評価しやすいようである。
このことは先にあげたような態度帰属の実験だけではなく、別の研究でも明らかにされている。『木を見る西洋人 森を見る東洋人』において、ニスベットは面白い例をいくつかあげているのだが、とりわけ印象的だったのは、以下のものだ。
チェらは、研究の参加者たちに「包括性」調査への回答を求めていた。それによると、「出来事は相互に関連しあっている」という「包括的な世界観」を抱いている人ほど、数多くの要因が結果に関わっていると推測する傾向がみられた。
アメリカ人よりは韓国人の方が包括的な信念を示している。だが、個人差も当然あり、アメリカ人であれ韓国人であれ、包括的な信念を抱いている人ほど、特定の情報を不要とみなすことに難色を示したという(同147-148頁)。
4 文化差の原因はどこにあるのか?
状況要因を重視しすぎると後知恵バイアスに陥りやすくなり、軽視しすぎると基本的帰属錯誤に陥りやすくなる。どちらも避けよ、というのはなかなかに難しい注文だろう。
西洋人と東洋人では、どうして陥りがちなバイアスに差があるのか。これについては論争が続いているようだ。西洋人の個人主義文化と東洋人の集団主義文化をもとに説明されることが多いというが、別の説明の方が適切ではないかという異論もある。
個人的には、「そりゃあ、いろいろな要因があるのだろうな」とか、「そう単純には分からないだろうな」などの直観が働いてしまうのだが、これは東洋人らしさの発露といったところだろうか。
5 余談 科学的思考・論理性・知能との関係
(1)科学的思考
西洋人風の「分析的思考」の方が、科学には向いているかもしれない。
「科学的思考」という観点からは、状況要因を軽視するリスクを引き受けてでも、大胆な仮説を提起し、世界の説明に挑むという態度のほうが向いているとは思うところである。なお、何をもって「科学的思考」と言えるのかは難しい問題だが、ここでは「事前に仮説を明示して、それを検証(ないし反証)するタイプの思考」程度のものとして考えている。
たとえば、現状のところ、東洋人は後知恵バイアス、西洋人は基本的帰属錯誤に陥りやすいということがわかっているわけだ。この理由について、「いろいろ要因があるのだろう」で納得してしまうのか、「きっとこの差は西洋人の個人主義文化・東洋人の集団主義文化の違いで説明できる」とか、「いや、これは弁証法的思考傾向をもつかどうかで説明できる」などと大胆に仮説をたてて検証(又は反証)するという思考に至るかどうかで、科学の進み具合は変わってきそうである。後者ならば、仮説が大胆に間違ってしまい、代償として大きなコストを支払うという危険もあるわけだが、ダメな仮説は放棄・修正していくという次の道が開ける。
他方で、状況要因を重視しすぎると、全体としては妥当なものの見方はしやすいものの、どんな現象についてもそこそこ説明できてしまうため、自らの考えを逐次改良していくという動機づけが生まれにくいと思われるのだ。この点、ニスベットの説明には説得力を感じてしまう。
もちろん、以上のことから、東洋人だから科学的思考はできないとか、西洋人だから科学的思考はできないということにはならない。集団の傾向から、個人の思考系統を導くのは危険である。
また、そもそも東洋人風の「包括的思考」と科学の相性が悪いとも限らない。例えば、包括的世界観の方が、ものとものとの意外な結びつきを見てとることができそうであるが、これは科学の営みにとっても有益だろう。
(2)論理性・知能
認知心理学者である山祐嗣教授はブログにおいて、陥りやすいバイアスに文化差があることから、西洋人と東洋人の論理性や知能の優劣が導かれるわけではないと書いている。
結論について言えば、私も同意見である。
私は「論理性」や「知能」について大それた知見をもっているわけではないが、さしあたりのところ、「論理性」とは論理語(「または」「かつ」「ならば」「したがって」など)を駆使して推論を構成できる能力であると捉えており、「知能」とはもっと広く非常にさまざまなものを含む概念であって、計画をたてたり、道具を用いたり、ものを考える能力だと捉えている。
こう考えると、バイアスと、論理性・知能の高低とでは関係がなさそうである。後知恵バイアスに陥りやすかろうと、基本的帰属錯誤に陥りやすかろうと、そこから論理性や知能に問題があるとは言えない。また、論理語を駆使していても、知能が高くても、それだけでバイアスから逃れられるともいえない。
ちなみに、いずれ記事でも書こうかと思っている話題ではあるが、「論理性」の高さと「知能」の高さ自体も常に肯定的に評価できるようなものではないと考えている。驚くべき逆説などではなく、ある能力に特化すると、特有の盲点が生じるというありがちな話である。
【参考資料】
・リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳『木を見る西洋人 森を見る東洋人』ダイヤモンド社 2004年
【関連記事】
再現性の問題
2015年、心理学(特に社会心理学)の論文は再現性がかなり低いという論文が提出された。しかも、その原因は学界全体に「疑わしい研究手法」が蔓延しているからであるという指摘がなされている。現在では学界を挙げての対策が行われつつあるようだが、何かを決断するとき、心理学研究に頼りきるというのはまずそうである。
なお、基本的帰属錯誤の存在と文化差については追試研究において支持の方向を示しているようだ。