街へ降りる人たち
村上春樹が心を抽象的に表すときに、よく「街」という言葉や概念を使っているように思う。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」なんてまさにそうだった。また、村上春樹の作品にはよく「井戸」というのもよく出てきている。
そういうのを踏まえ、村上春樹の本をそんなに多く読んでいるわけではないなりに、彼の心の中にはきっと街があるのだなあと思った。
きっと、誰の心の中にも街のようなものがあるのだと思う。心の中のわたしが暮らす場所。わたしの場合、それは「森」だった。
その森の中にはポツンとひとつ家が建っている。わたしの家だ。ちょうどその家を囲うようにして木々がたくさん生えているが、一箇所だけ切れ目があって、そこには街に降りるための一本道がある。街は遠いけれど単純な一本道なのでいつだって街に行けるし、街の人だっていつだって森に来れる。
森はわたしの所有する土地ではないから、本当に誰が来てもいい。この森には街にはないような花や食べ物がたくさんあって自給自足生活ができる。なかなかに楽しい森だ。
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わたしは仕事上、いろいろな経験、しかもあまりハッピーではない経験をした人とたくさん関わっている。そういう人たちはほとんど全員、生きづらさを抱えているように見える。本当はがんばりたいのにがんばれない人。自分や大切な人を傷つけて見てもらおうとする人。助けてほしいのに助けてと言えない人。
そういう人と接するたび、この人の心はどういう街なんだろうと思う。はたまたわたしのように森なのだろうか。
なんにせよ、その人の街はどこか少し歪んでいて、その歪みでとても困っているように見えた。その歪みを直す術も、逃げる術もまだ持っていないようだった。
ただ、その人たちはわたしよりも幼いので、まだその歪みを直せなくても逃げられなくてもいいと思う。その手助けをするためにわたしは毎日仕事をしているし、長い間かけて徐々に生きやすい街にしていけたらそれでいいと思う。
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わたしの暮らす森には色とりどりの花や見たことのない食べ物がたくさんある。なかなかに楽しくていい森だ。けれどわたし以外に暮らしている人はほとんどいない。理由はなんとなくわかっている。わかっているけれどわたしはそれの対処法を知らない。直す術を持っていない。今日また一人、街へ降りていく人を見た。