石州瓦の100年ミュージアム? その2 越智松平家 浜田城資料館 島根県浜田市
前回の益田市・れきしーなに続き、同じ石見地方の浜田市にあるミュージアムの記録です。こちらも100年を超える築年数。島根でぶらぶら見て回っている時に、どこかでパンフレット手に入れたのがきっかけ。そもそも「浜田ってどこ?」という人は少なくないと思われますが、関西から九州へ自走するなら山陽道や中国道パターンだけでなく、広島あたりから北西に日本海側を抜けて行く選択も楽しい(時間に余裕がある人向け)。寄り道にはだいたい面白い発見があります。
浜田市は石見地方の中心で人口49,500人。益田市の中心部も江戸時代は浜田藩領。現在の高速道路の整備状況からも浜田が交通の要衝であることが分かります。ただし過疎化の進む地方都市の典型で町並みは少しさびしいトコロです。市内には浜田郷土資料館がありますが、展示は雑多なカンジで思いっきり昭和な資料館です。建て替えの計画もあるようですが、入場無料という点を差し引いても展示品の整理や展示方法は古くさいカンジ。リピートは厳しい印象です(と言いながら2回目)。また建て替えには反対の声も。
そんな町に開館していたのが浜田城資料館。
浜田城資料館(御便殿)
島根県浜田市殿町83-246
浜田城資料館は2019年の開館。御便殿と呼ばれた建物は、後の大正天皇が東宮(皇太子)時代に、山陰地方行啓時の宿泊施設として1907年に建てられました。建築時は現在地より100m離れた所だったそうです。行啓後は松平武修(最後の浜田藩主・松平武聰の子)の別邸となり、さらにオーナーは変わっていきます。2006年に当時のオーナーだった立正佼成会から浜田市に寄贈され、現在地に曳家され移転。現在、御便殿の南側に立正佼成会の建物があるので、そこから曳家されたのでしょうか。
資料館に到着したのは、平日でまもなく閉館という時間帯。小学校低学年とおぼしき女子3人組が館のスタッフから色々と説明を受けていました。邪魔しないよう展示品を見学していると、「また来るねー!」と彼らは帰っていきました。こういうトコロに通う小学生がいるとは浜田の未来は明るい気がします。それとも彼らは特殊だったのでしょうか?
そしてスタッフの方に色々と興味深いお話をうかがいました。まずは越智松平家、そして浜田城。ここでないと聞けないネタでしょう。
越智松平家とは
浜田藩は西の毛利家の抑えの役目もあって、譜代・親藩大名が置かれています。最後の藩主は親藩の越智松平家で石高は61,000石。
松平家といえば有名ですが、数が多すぎて歴史好きな人にしか違いが分からない一族です(十八松平家とかいいますが)。安土桃山時代に最も力のあった血筋(松平家康)が徳川氏を名乗り、「他の一族とは違うのだよ!」とランクアップして差別化を図ります。そして後に徳川家を名乗れたのも将軍家と徳川家康の3人の子を祖とする御三家(尾張、紀伊、水戸)の当主と嫡男のみでした。つまり徳川家からの分家は松平にランクダウンします。
越智松平は少し特殊な成り立ちです。きっかけは徳川綱豊(1662-1712)が2人のおじさん、4代将軍の家綱と5代将軍の綱吉に跡継ぎがいなかったため、6代将軍・徳川家宣になった事です。家宣には弟に松平清武(1663-1724)がいて、彼は気がつけば将軍の弟になってしまいます。
清武は家臣の越智氏に育てられたので、越智松平家というちょっと格が違う松平家の祖となります(家康の玄孫ではある)。
越智松平家は清武の直系の血筋ではなくなりましたが、御三家系の養子で家系を繋いでいます。浜田藩最後の藩主武聰(1842-1882)は水戸家の徳川斉昭(1800-1860)の子です。つまり最後の将軍・徳川慶喜(1837-1913)の弟です。ここにきて再び将軍の弟。しかもこのタイミングで。
幕末の浜田藩は幕府による第2次長州征伐に従います。しかし長州藩の反撃からの追撃を防ぎきれず、お城を放棄して逃亡します。地元民には悲しい歴史です。相手の長州藩の実高は100万石といわれ最新兵器で武装し、石見口を率いたのは大村益次郎(村田蔵六)。靖国神社の前に立っている日本陸軍を創設した人。浜田の地は長州に占領されたまま廃藩となります。
浜田城跡
資料館の裏山は浜田城跡です。資料館の方に時間があるなら是非登ってくださいとおススメされました。日が落ちてきていたので、やや駆け足で。
市街地はお城の南東に広がっていて、本丸からはあまり見えません。
幕末の浜田藩兵は、逃げる時にお城に火を放ち焼いています。建物がほぼ残ってないので、お城に興味のない人にはただの山登りです。
資料館の方がなにかと強調されていたのが、「天守代わりの三階櫓には藩兵は火を放っていない!」でした。
遺構を発掘するとあちこち焼けた痕跡は確認できたそうですが、三階櫓の辺りには確認できず。シンボルであった三階櫓に自ら火をつけたと言われるのが地元の方々には引っ掛かるのでしょう。敗者はあるコト無いコト言われがちです。
資料館を後にする時にスタッフの方に1つ尋ねました。
「この建物は石州瓦ですか?」
少し間があって
「・・・あーっ・・・ 実は三州瓦なんです。」とポツリ。
何度かオーナーが変わった過程で三州瓦に葺き替えられたそうです。
お城が燃えたとか燃えてないとかより衝撃の事実でした。思い込みというバイアスって怖い。またその事実を当然のように把握されていたのにもビックリしました。
地味だけど掘り下げてみると、いろいろ出てくるこういうトコロが好きです。
郷土資料館よりはるかに学びの多かった浜田城資料館でした。
おわり