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百万石の豪邸にお邪魔します 旧前田家本邸【お宅訪問2:高橋貞太郎】【前田家のトビラ】東京都目黒区

フランソワ・ポンポンによって開かれたトビラは、加賀100万石の前田家に通じる入口でした。今までいろいろと前田家関連のミュージアムに足を運びましたが、群馬で明治維新以降の当主にたどり着いた不思議。そして展示は終了していたという残念な事実。ビミョーな気分ではあるけれど、めげずにせっせと掘り起こすべく前田さんのお宅にお邪魔します。


パリでポンポンさんのアトリエへ訪問してまで購入したシロクマやバンは、彼の豪邸を飾るためだったと思われます(違っていたらスミマセン)。
その人の名は前田利為。徳川宗家が静岡70万石へと押し込められたコトにより、日本最大の石高を領有した家を継いだ人。


前田利為という人

前田利為としなり(1885-1942)は前田本家16代当主で侯爵、実父は最後の七日市なのかいち藩主前田利昭としあき(1850-1896)。七日市藩主家(1万石)は現在の群馬県富岡市にあった加賀藩祖前田利家としいえ(1539-1599)の5男利孝としたか(1594-1637)から始まった家です。
前田家には富山藩主家(10万石)や大聖寺藩主家(10万石)もありましたが、七日市藩主にはそちらから継嗣も入っていて、辿っていくと加賀本家の綱紀つなのり(1643-1724)につながります。綱紀さんは加賀4代藩主で加賀文化の奨励や保護を推進し、「加賀は天下の書府」といわしめたキーパーソンで、加賀前田家至高の工芸カタログ「百工比照ひゃっこうひしょうの生みの親。
利為さんは本家15代利嗣としつぐ(1858-1900)の養子となり、その娘渼子なみこと結婚。皇室の藩屏となるべく軍人の道を進み、ドイツ留学中には第一次世界大戦に遭遇しイギリスへ避難しています。太平洋戦争時にはボルネオ島(現インドネシア、マレーシア、ブルネイ)に守備軍司令官として赴任中に、航空機事故で戦死。お墓は京都の大徳寺芳春院(京都市北区)。加賀藩祖・前田利家の正室まつ(芳春院)の菩提寺です。

利為さんは本家を相続するにあたり、本家の方々や家臣筋から当主としての訓練や指導を受け、前田家の歴史や所蔵する美術工芸品から古典籍まで前田家の帝王学を学んでいます。百工比照も1日かけて通覧し、将来博物館を建設し世の人々に公開する考えを示したそうです。

(参考)百工比照 図録
発行:2021年 石川県立美術館 121ページ

そんな利為さんのコレクションが、東京の目黒区美術館で公開されたコトを知ったのが前回の館林。展示はとっくに終了(例の流行り病の真っ只中)。でもラッキーなコトに図録は入手。

前田利為 春雨に真珠をみた人 図録
発行:2021年 目黒区美術館 63ページ

図録の内容は前田家コレクションというより、利為コレクションです。洋画に日本画、そしてもちろんポンポン。前田邸内の家具の写真やデザイン画も掲載。「春雨に真珠」というタイトルは、蜘蛛の巣に雨露がついているさまを自身が撮影し「綾真珠」と名付けたコトに由来します。
利為コレクションは、家族(子供たち)の誕生日に贈った絵画が多いのが特徴だそうです。またヨーロッパの作家に依頼した、本人を含む家族の肖像画も珍しい。

旧大名家のコレクションは江戸時代までの道具類で構成されるコトがほとんどです。明治以降の当主によるコレクションとしては、利為さんと同時期の肥後細川家16代細川護立もりたつ(1883-1970)が頭に浮かびます。護立さんは1950年に永青文庫(東京都文京区)を設立し、現在も博物館としてコレクションを公開中。
図録で確認できる作家には、横山大観に下村観山、平福百穂ひらふく ひゃくすいの名前があり、永青文庫の所蔵品とオーバーラップします。また利為さんは下村観山に直系のご先祖・綱紀さんの肖像画や、明治天皇の前田邸行幸絵巻を制作させています。

それでは前田さんのお宅にお邪魔しましょう。


前田邸 駒場以前

東京大学 赤門

七日市前田邸は加賀前田家の本郷邸内(現在の東京大学)にあり、利為さんはそこで育ちました。本家相続後に戊辰戦争で焼失していた前田邸を敷地内(明治維新で90%減)に新築(日本館:1905年、洋館:1907年)しています。その建物は現存していませんが、遺構は懐徳館庭園として今も残っています(基本一般非公開)。

また江戸時代の前田家上屋敷遺構として有名なのが、いわゆる東大の赤門。

赤門は重要文化財。かなりのサイズですが加賀藩上屋敷の表門ではなく、12代藩主前田斉泰なりやす(1811-1884)が、11代将軍徳川家斉いえなり(53人の超子沢山:1773-1841)の娘溶姫(21女!)を迎えるために新設した御守殿ごしゅでん。ナマコ壁が金沢城とリンクします。


ちなみにもう1つのマイナーな赤門が、近くにあります。

東京都文京区向丘2-1-10

東大赤門の少し北側にあるのは、雅楽頭うたのかみ系の酒井家(酒井抱一の実家)の上屋敷から移築されたモノ。姫路藩5代忠学ただのり(1809-1844)が、こちらも家斉の娘喜代姫(25女!)をお迎えする時に建てた門。前田家の門に比べればかなりの小ぶりですが、前田家と酒井家の家格の違いにより仕方がありません。写真では周囲のマンションも赤くていいカンジに溶け込んでいます。


旧前田家本邸

東京都目黒区駒場4-3-55

そして東京大学の駒場の敷地と前田家の本郷の敷地を交換して建てられたのが、現存する前田邸です。こちらも本郷邸と同じく和館と洋館がありますが、利為さんのねらいは本郷邸とは異なります。前田邸は太平洋戦争後にはGHQに接収され、後に国と東京都の所有となっています。
 

【和館】

和館は洋館竣工の翌年に、外賓のための施設として建てられています。ヨーロッパ滞在歴の長かった利為さんの生活はあくまで洋風スタイル。ただし外国人をもてなすための日本建築の意味を、当時すでに理解されていた稀有な人。現在は目黒区の管理で、茶室等の利用も可能です。

水平線と垂直線が気持ちイイ、すっきりシンプルなデザイン。
外賓のためだからでしょうか、装飾的でなく綺麗さび系の趣き。
 

駒場公園自体が緑豊かですが、和館周囲にもややワイルドな日本庭園が。

木賊垣?

竹を半分に割って並べています。半分木賊垣とくさがき的な。ええトコのお屋敷で時々目にします。
 

【洋館】

イギリス・チューダー様式の洋館は、1928年の高橋貞太郎の設計によるもの(イギリス貴族のカントリーハウスをイメージしたと何かで読んだ記憶が)、重要文化財。こちらは東京都の管理です。
 

壁紙いろいろ、百工比照的に。外壁にはスクラッチタイル。
利為さんはヨーロッパ滞在中に新邸用の家具類や美術品をチョイスして、日本へ送っています。とにかくゴージャスな内装。


高橋貞太郎

設計者の高橋貞太郎ていたろう(1892-1970)、近江は彦根の人。

以下、東京都内の高橋建築3選

学士会館(東京都千代田区:1928年)

コチラも外壁にはスクラッチタイル。2024年12月末で再開発事業により営業終了予定。

高島屋(重要文化財、東京都中央区:1933年)
帝国ホテル新本館(東京都千代田区:1970年)

こちらも建替え予定が発表済。F・L・ライト設計の建物からバトンを受け取った新本館もカウントダウン中。ライト館(明治村に一部移築:愛知県犬山市)もスクラッチタイルでした。


【門衛所】

門衛所や門も重要文化財です。

門衛所の奥には建物が見えますが、一般には開放されていません。


前田コレクションの現在

前田家では、利為さんの戦死による相続や華族制度の廃止によって散逸した道具類があったようですが、利為さんは前田家伝来の大名道具類を後世に伝えるため、前田育徳会を1926年に設立しています(国宝22件、重要文化財77件を含む:2017年時)。それが門衛所奥の建物のようです。通称の尊経閣そんけいかく文庫は、綱紀さんの尊経閣蔵書にちなみます。その蔵書群こそが天下の書府の核心。


博物館建設という利為さんの構想は建物としては昇華できなかったものの、伝来のコレクションは、かつての所領・金沢にある石川県立美術館や成巽閣(兼六園内)で今も目にするコトができます。


そして現在の当主は2023年に19代目となった利宜としたか(1963- )さん。利為さんの曾孫で、京都の老舗イノダコーヒの社長。なぜコーヒー?と思いましたが、利宜さんが商社勤務時代にコーヒーを手掛けていたからだそうです。
藩祖利家や初代藩主利長以来の前田家当主の上洛・長期滞在でしょうか? (知らんけど)

前田家は家臣団にも大名クラスがゴロゴロしていて、その歴史は重層的で奥が深い。何より文化系コンテンツが豊富です。北陸に足を運ぶたびに深みにはまっていきます。楽しいけど。



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