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斜面にある階段ピラミッド状の大谷1号墳と定古墳群
大谷はオオヤと読むので、残念ながらオオタニさんのホームランの話ではない。岡山県の古墳も興味深いものが豊富にあるが、この古墳も全国に例のない方墳である。この古墳を含む大谷・定古墳群は石垣状の列石を持つ段構造の方墳となっている。
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1.大谷1号墳
解説本の写真では、平地に据えられた古墳のように見えたのだが、実際に訪れてみると、舗装された山道の行き止まりのところにあり、これがけっこう急な斜面に造られたことがわかり、直接行って見てみることの大切さを実感した。
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岡山県真庭市北房町の小盆地にあり、総社市から車で50分ほどで着く。その谷奥の見通しの良くない南向きの斜面に、独立して築かれた一辺が約22mの方墳。時期は7世紀後半とされている。
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ピラミッド構造などという表現もされているが、案内板の調査中の写真にあるように、基本は斜面の土を削ったり盛り土をした墳丘に外護列石を据えたものだ。階段状の列石を5段に積み上げたものではあるが、実は1段めと2段目は前面にだけ列石がめぐらされている。
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石室は石切横穴式石室と呼ばれるように、加工された巨石できれいに整えられたものだ。床面にも丁寧に板状の石が敷かれ、天井は一枚の巨石で覆われている。
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古墳を見学するたびに思うことだが、この大谷1号墳の場合も、山奥の斜面に巨石を運び積み上げるなどの作業をどのように行ったのか不思議でならない。さらには、なぜ階段状のものにこだわって築かれたのかという点も興味が湧く。
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これはネットで見られるが、復元当時の空中写真で全容がよくわかる。
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2.大谷1号墳の副葬品
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石室からは陶棺と木棺が置かれていた。既に盗掘にあっていたのだが、奥壁に接して置かれた金銅装双龍環頭太刀は完形で他の太刀類とは比べ物にならないような出来栄えであった。この太刀を加耶系のものとされるご意見もある。(ブログ『剣根の日本古代史』)
韓国南東部の慶尚南道域の加耶系昌寧校洞などから、立体的に龍を表現した双龍環頭太刀が見られるので、その後に平たく簡略化(便化)されたものが、列島に広がったのだろうか。
奈良大学の豊島直博氏は、双龍環頭太刀は横穴式石室が2基並ぶ「双室方墳」からの出土が多く、やがて乙巳の変以降に姿を消すことからも蘇我氏との関係を指摘されている。(豊島2022)この「双室方墳」や「方墳」そのものについては、奈良県の方墳などこれから調べていきたい。
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なお、この古墳の被葬者を、日本書紀天武紀8年3月条の病で亡くなったという吉備大宰石川王にあてる説があるが、どうであろうか。確かに吉備で亡くなっているとの記事ではあるが、播磨国風土記揖保郡条には総領として登場し、広島県の国司神社には祭神として祀られているなどからも、断定はしがたい。
しかし、先ほどもふれたが、方墳には蘇我氏との関係が取りざたされており、その蘇我氏は後に石川を名乗るようになる。書紀の孝徳紀には「蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣」とあるが、皇極紀の乙巳の変では倉山田麻呂の名で、三韓の上表文を読み上げる役となる人物がいる。よって石川王も被葬者の候補とはなるかもしれない。
余談だが、双龍ではなく単龍環頭太刀は、武寧王陵のものが有名であり、これをコピーした太刀が、列島各地の古墳に副葬されている。武寧王についても、後に論じていきたい。
3.片側だけ段築が多い古墳
1,2段目が前面だけ列石が施されたものだが、下から斜面を見上げると、威厳のある堂々とした墳墓という印象を与える効果はあると言える。
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時代は古くなるが、前方後円墳にも片側だけ段築を増やしたものがいくつか存在する。
京都府大山崎町鳥居前古墳は丘陵部にあって後円部が4段であるが、斜面側だけ1段目が造られて全周していない。他にも奈良県西殿塚古墳、神功皇后陵とされている奈良県五社神古墳などがある。
これらの古墳は、現在は鬱蒼とした樹木で遮られて、段築の様子を見ることはかなわないが、当時においては周辺の行きかう人々の視線を意識した造りだとされる研究者もおられる。(角2018)
大谷1号墳の場合は、道から見上げるようにその全容を確認できる。松木武彦氏は「飛鳥時代に吉備中枢部の一つであった北房地域には、正面観に凝った豪族層の古墳が集まっている」とし、大谷1号墳は、たしかに1,2段目の列石を設けることで「五段のファサードの偉観が整えられた」(松木2023)という説明は納得できるものだ。ファサードとは建築物の正面部のデザインで、建物の顔、ステータスを意味し、まさにこの被葬者の地位を表す構造物であったのは間違いないだろう。
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4.定古墳群の東塚と西塚、定北古墳
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大谷1号墳と道路、河川をはさんだ対面の山裾に定古墳群がある。ちょうど、横穴式石室の入り口が並んでみえるので、先ほどの「双室方墳」ともいえそうだ。(発掘調査では「近接」とある)
西塚の石室には、6基の陶棺と木棺1基があったが、副葬品は見られないのだが、東塚では、陶棺が4基で、副葬品も太刀の装具や馬具類など多く見つかっているが、注目したいのは金糸とリングであり、全国的にも珍しいものだ。その金糸で有名なのは阿武山古墳の金糸で刺繍された冠帽だが、この点についてもまた別の機会としたい。
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筆者の友人といっしょに写った石室を見ても、その巨大さでは、近畿の有名な古墳にひけをとらないものであり、副葬品とあわせてその被葬者がかなりの人物であったことがわかる。
西塚は2段築成の方墳であったそうだが、東塚は古墳前面に2段の基壇を備えた3段築成で、大谷1号墳と同じ構造のようだ。
次は少し奥に進んだところにある定北古墳
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定北古墳は、石垣状の段を持つ3段築成で、7世紀半ば頃で、4基の陶棺のなかに蓋と身に「記」という文字が刻まれたものもあるという。太刀や斧状鉄製品などの他に銅碗の蓋があったというのは注目であり、分析結果から朝鮮半島産の鉛が使われているという。先ほどの金糸や銅碗などから、この古墳群を形成した集団は加耶を含む新羅や百済などとの関係もあったということだろう。
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これも余談だが、百済にある石村洞古墳群の3号基壇式積石塚の外観は、酷似していると言えるが、これはすべて石積みで埋葬施設は竪穴式石槨のようである。高句麗の影響とされているが、時代も4世紀後半とかなり離れており、その後どのような変遷を辿って吉備の地に至ったのかは興味深いところである。
写真は都塚古墳と石村洞古墳以外はすべて、2025.1.22撮影のものです。
参考文献
松木武彦『古墳』角川ソフィア文庫2023
角早季子『大山崎町鳥居前古墳』季刊考古学別冊26雄山閣2018
豊島直博『古代刀剣と国家形成・考古学選書2)同成社2022
諫早直人『新羅の銅鋺-佐波理鋺出現への予察-』奈良文化財研究所 ネット掲載
ツルギネ氏ブログ(剣根の日本古代史)『第七十二話 双龍文環頭太刀は大伽耶の剣』