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古代出雲大社復元案の高層巨大スロープの疑問

 実際に復元されたわけではないが、古代出雲大社の複数の復元案の模型が博物館に展示されている。その中で長いスロープを持つ神殿の模型が他の案より大きなサイズで博物館に展示され、HPやメディアにも、この案が実在したかのように扱われている。この復元案にも問題があることと、後半では、発掘された宇豆柱が伊勢遺跡と同様の方法で立てられていた可能性について説明します。

1.復元案は意見がまとまらないまま、巨大スロープ案がもてはやされた。


金輪御造営差図

 2000年に現在の本殿の南側で鎌倉時代のものと推定される三本一組の巨大な柱根、いわゆる宇豆柱が発掘され、「高層神殿」の存在を示唆する発見となった。そして、これを機に古文書の記録や「金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)」注1)などから復元プランが検討されたが、高さの問題、図面の階段の長さなどでの論争の決着はつかず、島根県立古代出雲歴史博物館では、5人の学者さんの自説に基づく復元模型(1/50)が博物館に展示されることになった。
 

5名の学者さんによる復元案の模型

 ところが、その展示の横には、新たに福山敏男氏監修による大林組プロジェクトチームの案による復元模型が1/10という他の5点よりはるかに大きなサイズでこの隣に展示されているのである。そうすると、6種類の復元モデルとなるが、この展示の扱い方からしても、巨大スロープをもつ復元案が何か正当な復元であるかのような印象を受けざるを得ない。インパクトがあるので、マスコミにとっても注目してしまう構造であり、当の博物館のHPでも巨大スロープの神殿がメインとして扱われている。
 

島根県立古代出雲歴史博物館 復元案の展示

 しかし、この109mの長さで170段の階段という構造の復元は実在したというのか。このようなものがあったとはとても言えないことを説明する。

2.神殿の高さを断定することはできない。
 
 まずは、巨大神殿の本当の高さはいかほどであったのかという問題だ。実は、残念ながら建物の全高が書かれたものはないのだ。大林組の復元では高さ16丈(48m)となっている。これは、平安時代の源為憲の記した口遊(くちずさみ・児童向け学習書)の「雲太・和二(大仏殿)・京三(平安京本殿)」から、本殿の高さは、焼き討ち前の大仏殿が15丈であったので、大社は16丈あったとみなされたのである。しかし、これには異論があり、この歌は順位を示したものでなく、神社なら大社、大仏は東大寺、建物は平安京を示すとの解釈もある。
 さらに、丈・尺、町の現代換算の長さは妥当なのか、という問題もある。養老令・延喜式では、1尺29.8cm 1歩6尺179cm、1町60歩107mとなっているのだが、古田史学の会の服部静尚氏から、「ものさし」の出土品および伝承品の寸法と、大宝律令の記載からみて、当時の日本においても中国唐と同じく、23〜25㎝の小尺と、28〜30㎝の大尺が並存していたものと考えられる、とのご教示があった。  
 すなわち1尺が23cmであった可能性もあるのだ。この場合だと、高さは36.8mとなり、11mほど低くなる。復元モデルの中では、左端の三浦正幸氏のプランの27.3mよりは9m高く、ちょうど復元モデルの右隣との中間の高さと考えることもできる。
 だが実際には高さ16丈と言うこと自体が推測にすぎず、実際はもっと低かった可能性もある。

3.大きな問題は、階段の図面を正しく理解していないのではということ。

 高さが10mあまり低いということであれば、巨大スロープも必要なくなるのである。金輪造営図に、「引橋長さ一町」と記されていることから、100m余りのスロープが想定されたのだが、実はこれには問題があることが指摘されている。


金輪造営図 階段の図に「引橋長一町」とある

 引橋の長一町は、誤解による後の記入との説もある。実際に階段部分の痕跡は見つからず、また100mもあれば境内を突き抜けてしまう。さらに金輪造営図は、出土した柱跡から正確に描かれた、まさに設計図であったと考えられるので、引橋の上から見た階段部分も正確な長さを示していると判断するのが適切だ。つまり傾斜は急となるが、距離は短い階段とするのが妥当なのである。

階段平面図の比較
大林組の復元図の平面図では長い階段が描かれている

 実際に大林組の図面では、その平面図に長い階段が描き込まれているのである。このことから、階段の問題では、急傾斜の階段が付けられた復元モデルの左側の3点が妥当と言えるのだ。
 長いスロープに50m近い高さの巨大神殿というイメージが強調され、博物館でもこの大林組の復元モデルが「目玉」のようになっているが、こういった行為は、三内丸山6本柱の建物と同様で、古代史に虚構のイメージを植え付けることになるのである。両者には共通する問題点がある。縄文時代に20mもの長さで直径が80cmを超える太い柱をどのように立てることができたのかも納得できる説明はない。同様に、出雲大社の場合、棟持ち柱は42mだという。そのような長さの材木を確保することができたのであろうか。もしあったとしても、はたしてその巨木を立てることができるのであろうか。
 大林組プロジェクトチームさんには、重機でなく人力でどのように立てることができるのかを実験で説明してほしいところである。

4.巨大スロープの根拠に日本書紀の誤読がある。
 
 大林組の解説では、「大国主神の宮殿を造営するにあたり、海に遊びに行くときのための高い階段と、浮橋、そして天の鳥船をつくる約束が交わされたことが述べられている」として、これが100mを超える階段の根拠として説明されている。しかし、これは都合のいい誤読にすぎない。該当の原文を以下に掲げる。

其造宮之制者、柱則高大、板則廣厚。又將田供佃。又爲汝往來遊海之具、高橋・浮橋及天鳥船、亦將供造。又於天安河、亦造打橋。

 宮は、柱を高く太く、板は広く厚くとしている。その後に、田を作って与える、また、海で遊ぶための高橋・浮橋などを用意すると言っているのだ。宮と高い橋はあくまで別。宮殿に高橋を付けるとする解釈は無理であって、巨大スロープの根拠にはならないのである。ここは、監修をされた方のアドバイスによるものかと思われるが、あまりに都合よすぎる誤読ではないだろうか。

 以上から、鎌倉時代にあったと考えられる巨大神殿は、三浦正幸氏の左端のモデルが適正であると考えたい。巨大スロープのモデルは、何の根拠もない物であり、かつ図面の誤解によるものであるので、これを中心にアピールすることは見直してほしいと思う。
 

左端が三浦正幸氏の復元模型

 なお、島根県立古代出雲歴史博物館は2025年4月から2026年9月(予定)まで休館のようです。耐震改修工事等の為とのことですので、ぜひこの機会に復元コーナーの再検討も行ってほしい。
 
注1. 「金輪御造営差図」は出雲国造家に伝えられた図面で、本居信長の「玉勝間」に、写し取った図面が載せられた。直径1.3m、3本まとめた棟持柱―宇豆柱が出土したことで、正確な図面であることが明らかとなった。

参考文献
瀧音能之『出雲大社の謎』朝日新書2014
浅川滋男『出雲大社の建築考古学』島根県古代文化センター編 同成社2010
大林組プロジェクトチーム編著『よみがえる古代大建設時代』東京書籍2002

寺社建築文化財の探訪<TIAS>出雲大社の起源と歴史
http://masa4534.blog.fc2.com/blog-entry-125.html
※こちらのHPはこの問題に関して、詳しく説明されておられます。ぜひご参照ください。

【2】発掘された出雲大社の宇豆柱の柱穴も伊勢遺跡と同じスロープがあった。

 伊勢遺跡の柱立てから、三内丸山の六本柱の巨大建造物が虚構であることを重ねて明らかにしたが、一方で、この古代の工法が、他にもあるのではないかと思われた。そのひとつが、三本の木柱を束ねて宇豆柱としたあの出雲大社である。有名な三本の柱が検出された写真はよく見かけるが、実際に柱穴はどうなっていたのか、さらに御柱と違って三本束ねた柱をどのように立てたのかという疑問が湧いてくる。

発掘された宇豆柱

 調査報告書に、以下のような図面があった。その断面図には、柱穴の底面が傾斜していることが見て取れるのである。

上から見たところ


宇豆柱断面図

 奈良文化財研究所の報告書によると、柱の立て方は、A―A´の断面図を見ると、「柱穴が南から北に緩やかに下るスロープを持つことから、南方から搬入して、柱立てを行った」とある。 
 重要な指摘だが、何故スロープ状なのかについての言及はないが、伊勢遺跡と同じような方法の柱立てであったと考えられる。また、この三本組の柱は、別々に立てて、後から束にした様子が確認できるのだそうで、三本を束ねてから立てたのではないようだ。さすがに、あらかじめ三本に組んだ巨大な柱を立てるのは困難であろう。 
 なお、大林組プロジェクトは、この巨大な出雲大社の復元においても、柱穴そのものについて何の考慮もせずに、架空の巨大神殿建築工事の説明をしている。  
 長いスロープの高層神殿の復元は疑問だが、宇豆柱をスロープのある柱穴に入れ込んで、柱を立てたのは間違いないようである。

参考文献
奈良文化財研究所第6章 八足門前の調査②(近世以降の遺構) ネット掲載
写真
島根県立出雲古代博物館HPより(タイトル・宇豆柱) 上記以外は筆者による。

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