どんな時代、どんな場所にも人間の生活がある
ファンタジーに限らず、現代の人間ドラマを書こうとするときでも、そこに当事者たちの当たり前な生活があるということを、毎度思い知らされるのである。
小学生くらいの頃は気付かなかったことであるものの、大学に入学して一人暮らしを始めてからというもの、本を読む度、あるいは物語を書く度に、登場人物の抱える生活というか、生きるために必要な段取りのようなものを、強く鮮明に感じるようになった。
誰もが知っているアニメで例えるならば、ルパン三世。
食事を摂るためにアジトに蓄えた食材で料理をするシーンや、それが面倒だからと外食しに行くシーンが描かれている。
嗜好品でいつもくわえている煙草はたまに吸いきって切らしてしまうし、ホコリでべたべたになった身体を流すためにシャワーを浴びる。
こういう生々しい、生身の肉体があるからこその「生活」を感じる一幕は、怪盗に限らず、何かの象徴としての「キャラクター」には不必要な、むしろあってはならない部分である。アイドルや大臣といった公人、あるいは正義のヒーローや魔王といった象徴的な存在は、トイレに行ったり、シャワーを浴びたり、そういう一人の人間としての生々しさがない方が、キャラとして立つ。我々一般人と一線を画するある種超常的な存在として認識されている方が、仕事がしやすいわけである。逆に我々の方がそういう一面を求めている節もある。郵便局の配達員がコンビニでトイレを借りたら本社に通報されるといった事件が、その心情を物語っているだろう。
しかし、僕は本や物語に、キャラクターではなく人間を求めている。本は誰かの目線で世界を眺めるフィルターで、物語を通して自分以外の人間から見える世界を疑似体験する。そんな風に本や物語というものを解釈しているのである。
そんな僕からすると、むしろ肉体の生々しさというものは歓迎すべき要素。たとえ原始時代だって、肉体を維持するためには食事をして、身体を休めて、心を休めて、筋肉を鍛える必要がある。子孫を残すためにはSEXをする必要がある。もちろん今後科学の発達によって「人間として不適切」とされたSEXが廃絶される、あるいは全人類が胃ろうで栄養素を直接体内に取り込む、そんなディストピアに変化するとしたらその限りではないが、これらはヒトという地球上生命体の一種が低俗な肉体を捨て去らない限りは、確実に必要になる「生活の段取り」には違いないと思っている。
だからこそ、物語に垣間見える「生活の段取り」、言い換えるなら生活感といったものが見付かったとき、僕はその世界に生きているような心地になる。その感覚がとても好きだ。
ニーズとしてはそんなに多くないかもしれないし、僕自身そんなに上手に演出できはしないのだけれど、そういうさりげない生々しさを大切にしていきたい。
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