知性を超えて働きかける「身体から発生する言葉」
小説に限らず、随筆、詩、実用書に至るまで、心に響く文章というものは必ず、著者自身の身体から発生した言葉の積み重ねだと思うのである。
文章を書く体験と読む体験を繰り返した上、様々な人に話しかけてその生き様を理解しようと努めてきた僕。
その体験から、どうもこの世界には「身体から発生した言葉」があると思えてならないのである。
この「身体から発生した言葉」というものにはいくつかの種類がある。
ひとつ、擬音語に代表される物理的な体感現象を言語化した言葉
ふたつ、「胸の痛み」や「胃が重い」といった表現に代表される、心の動きが体感現象として具象化された慣用句
みっつ、これは上手い言葉が見当たらないのだが、あえて簡潔に表現するならば、肉の重みを持つ文章
パッと思い付くものでこれくらいだが、もっと種類があると思う。
これらの言葉は、読む者に言葉そのものの意味を超えた「風景」を想像させる。言葉を理解する知性に訴えかけるのではなく、万人が身の回りを把握するために使う感性に訴えかけるのである。
ひとつめとふたつめは言葉そのものであるため分かりやすい。感情が肉体に及ぼした変化を言語化したものだ。
身の回りの出来事に対して何らかの感情を抱き、交感神経や体内の伝達物質を介して胃の収縮や血管の収縮といった現象が発生、それを体感した我々がそれに言葉をあてがったものである。
それに対してみっつめは少々特殊だ。地に足がついた感覚、あるいはより世界観に没入したがゆえの共感、などと様々に言い表すことができるが、単語単位でなく文章や段落といった大きな単位で、日常の体感に近い表現が現れる状態である。
小説を書く上ではこれがかなり効く。意味を象徴する「言葉」を超越し、「シチュエーション」や「風景」に意味を仮託し、想像力に働きかけることで、文字数以上の情報を伝えることが可能だからである。
現状は日常の中にたまたま得た気付きを言語化した段階なので、みっつめに対してこれ以上の分析ができていない。
しかしこの気付きが深まった段階で、さらに詳しくこのことを記事にしたいと思っている。
9/4 追記
「身体から発生する言葉」の持つ説得力にて「肉の重みを持つ文章」についての考察を展開したので興味がある方は覗いてみてください。
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