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世界の証明 【前文】解説。自分のために生きた方が良いという考えの耳触りの悪さについて。


※本文の世界の証明とは直接的な関係はないです。引っかかる人が多いみたいなので解説です。

本の前文では、一般受けをしやすい、人のために生きなさいといった論調ではなく、自分のために生きた方が良いという考えを主軸として話を展開しているので、そんなに耳触りは良くない。

世間で自分のために生きるのが悪とされがちなのは、他人を顧みない行為と混同されているからだと思う。

人のために生きなさい、という思想に基づく行為には、その聞こえの良さの反面、人と人との心が常に干渉し合うリスクが伴われている。
僕と君にとって良いことが、他の誰かにとっても良いことだとは限らないし、善意のように見えて、実はただの価値観の押し付けだったりもするから。

そうした中、第三者を巻き込みながら、心的な利害関係は常々生じていくわけだし、更に言えば、承認欲求を満たすために生きている人間なんかは、その利害関係の中で成果を上げるしかないわけだから、人のためという行為から、憎しみや悲しみ、争いが生まれているのは事実だし、必然的ではあるだろう、というところまで僕は話を掘り下げている。極論、戦争だって正しさがぶつかり合った末路であるし。

例えば「自分のために」、自らの美容と健康を追求するための研究を行った結果、その成果を持って他人を救うことはできる。

一方で、人のためという「行為」に主軸を置いた自治会とかの大人達が、余計な添加物たっぷりのコンビニのお菓子を、子供達の喜ぶ顔のためにと配る行為は、食事=健康が前提である以上、むしろ結果だけ見たら害悪でしかないし、救われてるのは配った方の承認欲求でしかないだろみたいな話。
(これはあくまで一例なので、それが炊き出しなら何でもいいから食べたい人もいると思います。炊き出しのご飯は割とヘルシーな傾向にあると思いますが)

つまり本質的に相手のためになるには、例のように食べ物がテーマなら、自分の中で「食」というものと、それなりに向き合わなければならない。

もちろん相手の体のことを考えた食べ物を配ろうとする人や、純粋な愛情を持って行動する人もいるだろうけれど、多分そういう人達の行動は、それこそ自分の中の誠実さと向き合ったがゆえの結果なのではないのかと思っている。つまり、純粋な愛情をもって行動できる人の行動の本質は、自分ごととして食を追求するように、自分がすべきこととして「人のためとは何か」を追求した結果なのではないか。

だから当然そういう人達の心の中には、善意を気に入らない誰かに当てつけようとか、清く正しくあって、他の誰かより優位に立ってやろうみたいな気持ちもないはずだから、人のためにどうこうという発想ですらないはず。

だから結論として、どちらかと言えば、自分のために生きようとするマインドには、誰の心にも踏み込まずとも、結果的に他人のためになれる多くの可能性が含まれているけれど、人のためと煩い人達の行為の中には、承認欲求を満たしたり、誰かより心が優れていると思われたいマインドが含まれる場合も多く、そのメンタリティが社会における人的悲しみや争いの病理であると僕は考えているので、自分の世界を追求した結果として、人の役に立てればいいという心的状態、距離感の方が、自尊心や承認欲求の干渉も少ないし、自分の心も守りながら他人のためにもなり易いのではないのかと言う話をしている。(緊急時は除く)

だから僕の主張は、人のために生きるとは、具体的に一体どういうことなのかと、とことん考え尽くしたがゆえの結論なのです。所詮言葉遊びではあるけれど、僕は、自分のため(世界)を生きることを主軸に話を展開していった方が、核心的で釈然とする説明に至ることができました。

ちにみに、目の前で困っている誰かに手を差し伸べる行為は、特段誰のためだとも思わない。よく言う、当然のことをしたまでですみたいな話であって、むしろ、そんな些細なことにまで思想的な話を持ち出してくる時点で、そこには社会病理的なメンタリティが存在してしまっているだろうというのが、僕の本(の前文)、この文章の主旨。生まれつき優しい人はいるし、人と人とが支え合って生きているなんて、そんな当たり前すぎる話をこんな所でわざわざするつもりはない。

それ以前の話として僕は、そもそも人の役に立っていない人間なんていないだろと、本の中では話しているけれど。

こんな解説を、もしかしたら本の中でした方が良かったのかもしれないけれど(結構重複はしている)話の構造としては本で書いた内容で十分成立していたから、せっかく綺麗に書けた骨格に、蛇足で余計な脂肪をつけたくなかった。

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人のため論については以上ですが、
ついでにもう一点。


前文の更に前半、書き始めの方、結構、悲観的に感じられる表現があると思うのですが、僕はこの本を、この世の全てを肯定するために書いているので、人生思い通りにいかない人のことや、人間の苦悩すらも肯定したかったから、そういう表現も含めた。

もしも地球上の人間が全員前向きになれたとしても、やっぱり人生上手く行かない人や、夢が叶わない人はいるはずだし、日本人全員が東大の法学部を卒業したとしても、やはり誰かが人のやりたがらない仕事をしなければならない。夢や希望に対する思いが大きければ大きいほど、上手く行かなかった時の悲しみだって深い。
だからこそ諦めたり苦しんだりする現実すら、最後の手段としてでも、肯定できる道は残しておいた方がいいと思ったから、最初の方は、少し悲しげなトーンになりました。そこら辺は理解して頂けると有り難い。

だけど同時に、この本の目的は、虚無の完全否定なので、最後まで辛気臭いままでは終わりません。
何もかもが上手く行かなかった人も、全てを諦めた人も、虚しさを消滅させられる可能性が残る分には問題ないはずなので。

 終わり。

最後に。そんなわけで、これが文章としてのコンセプトです↓1000年後も普遍的で強力な構造体である事がこの本の目的です。


著書【世界の証明】

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