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悪魔の昇華

 既にあなたもご存知のように「憎悪の感情(憎しみ)を捨てろ」と言うのは簡単ですが、実行するとなると非常に困難です。憎悪の感情を捨てることを困難にしているものが執着心というもので、この執着心が強力且つまとわりつくような接着剤の役を果たしてしまっています。

 執着心という名の接着剤が、憎悪の周囲にたっぷりと付着しているため、いくら体を動かしてみても、憎悪の感情はその人からくっついて離れません。憎悪の感情を右手でつかんでごみ箱へ捨てようとしても、右手にくっついて離れません。右手にくっついた憎悪の感情を左手で掴んでごみ箱へ捨てようとしても、次は左手にくっついて離れません。

 しかも憎悪の周囲にたっぷりと付着している執着心という名の接着剤は特殊で、人間という生き物にしかくっつかず、接着の強度は減少しません。それどころか、その人が憎悪に気を向けるほど、接着の強度は増加します。接着の強度が増加すると、もう憎悪は離れなくなります。ムキになって無理矢理に離そうとすると、皮や肉を持っていかれて大量出血になります。場合によっては死に至り、これは自殺とも呼ばれています。それでもなお、執着心という名の接着剤をたっぷりとまとった憎悪は、その人にくっついて生き続けます。

 では、どうすれば憎悪の感情を捨てることができるのか。

 接着剤を無力化することです。つまり執着心を無くすことです(あるいは極力弱くすることです)。接着剤を無力化するためには、そのための材料が必要になります。つまり執着心を無くすために、(合法的範囲内で)没頭できることを見つけるのです。

 その没頭できる事は人によって異なります。ある人にとっては上座部仏教を学ぶことでしょうし、ある人にとっては様々な地で様々な人に出会うことでしょう。またある人にとっては小説を書くことで頭の中を表現することでしょう。この没頭できることを見つける際に、無駄を省略して楽をしたい気持ちから「私が没頭できることは何ですか?」「私は何をすればいいですか?」「私はどうすればいいですか?」と他人にたずねる人は、結局は行動を起こせません。行動を起こせても途中であきらめます。なぜならその人には、私は変わる、という自発性と覚悟がないためです。

 何十回、何百回もの行動を通して、憎悪の周囲にたっぷりと付着している執着心という名の接着剤を無力化(あるいは極力弱く)する材料を見つけるのです。もちろん、その材料、つまり(合法的範囲内で)没頭できる事とは1つだけとは限りません。2つ見つける方もいらっしゃるでしょうし、3つ見つける方もいらっしゃるでしょう。誤解のないようにお伝えしますと、没頭できることを見つけて執着心を無くす(あるいは極力弱くする)には、何年もの時間が掛かります。今日、明日にできるお話ではありません。

 さて、執着心を無力化(あるいは極力弱く)することができたなら、憎悪を捨てるだけです。「では、どうぞ捨ててください」と言いたいのですが、そうはいかないのが現実です(中には、執着心が無くなってからいつの間にか憎悪も無くなっていた、という場合もあるかもしれません。執着心という名の接着剤が無力化し、それに伴いくっついていた憎悪もポロッと取れて無くなったのです)。

 映画「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを観たことのある方は、あの指輪を思い出してください。憎悪の感情は、あの指輪のようなものです。憎悪は魅惑的なのです。憎悪に目を向けると、たちまち執着心が発生し、増殖し、強くなってきます。すでに人生の長い時間を憎悪と共に過ごしたこともあり、この憎悪を捨ててしまったら自分はどうなってしまうのか、自分が自分でなくなってしまうのではないか、という恐怖にも襲われます。

 せっかく憎悪の周囲にたっぷりと付着していた執着心という名の接着剤を無力化したにも関わらず、あと1歩のところで捨てることができない……。デモーニッシュ(悪魔に魅了された様子。超自然的〔新明解 国語辞典 第八版〕)な世界とは、あまりにも魅惑的なのです。

 しかしそれでも、まだ憎悪に屈したわけではありません。憎悪の昇華 に力を注ぐのです。つまり没頭できる事を何年、何十年も継続するのです。

 憎悪の昇華を何年、何十年と継続するうち、憎悪の感情は隅に追いやられ、あなたが没頭している、その自発性ある合法的活動が主となります。そうなると自信がつき、物の考え方・感じ方、世界観もほがらかなものに変化していきます。気づけば、かつては夜も眠れぬほど激しく憎んでいた人の事も頭にありません。頭にあったとしても、それはその人への憎悪の感情ではなく、貴重な体験の1つとして認識されます。

 この状態は、天使しか知らない人、人間の良い面しか知らない人、また憎悪に屈服してしまった人には達することができない状態です。天使と悪魔を、人間の良い面と悪い面を経験し且つ困難から逃げることなく闘ってきた人に、天使しか知らない人および人間の良い面しか知らない人はかないません。

 感受性が豊かだからこそ、あなたは人の機微に敏感で、そのため人に嫌悪感を抱きます。感受性が豊かだからこそ、あなたは世間というものに誤解され、そのため人知れず悔し涙を流します。感受性が豊かだからこそ、あなたは憎悪の感情に支配されやすく、そのため人よりも苦難の道を歩みます。しかしその苦難の道の先には、勇敢さと心の安らぎが待っています。

 地獄の沙汰も自分次第です。具体的に言えば、前向きな心構えと物事を良い面から見ようという意欲次第です。

 天使が人を強くするのではありません、悪魔が人を強くするのです。天使が光をもたらすのではありません。悪魔が光をもたらすのです。誤解のないよう補足すれば、自身が持つ憎悪や憤怒といったあらゆる負の感情から目をそむけることなく闘い、誤解に基づく罵詈讒謗ばりざんぼうを受けてもこらえることが人を強くするのです。暗闇を知っているからこそ光の美しさと有り難さがわかるのです。

 苦難は少数派のあなただからこそ与えられた試練であり特権であります。悪魔に、憎悪の感情に屈服する必要などどこにもありません。

 悪魔をも、自分の人生のかてとするのです。