グルーヴ感欠乏症を克服するために
僕は昔からどこか冷めていた。学校の合唱コンクールで泣く人の気持ちも、卒業式で泣いてしまう人の気持ちもわからなかった。いつもどこか一歩引いてしまう自分がいた。「グルーヴ感」を生まれながらに感じることができる天賦の才を持つ者たちに、内心僕は嫉妬していた。
そもそもグルーヴ感ってなんだという人のために最初に説明をしておく。
グルーヴ感
読み方:グルーヴかん
別表記:グルーブ感
主に音楽について用いられる、ノリのよさ、一体感、高揚感、などを指す表現。
※weblioより参照
つまり全体が何となくいい感じに高まり、一体感を感じれる状態だ。
いつも僕は飢えていた、「グルーヴ感」に。
合唱コンクールに熱中できる人種になりたかった。
卒業式に涙する人種でありたかった。
俯瞰して、冷めた心で、その場の雰囲気に心を委ねられない自分が悲しかった。
僕はグルーヴ感欠乏症なのだ。
さて、ここらへんでグルーヴ感について考える。
グルーヴ感に身を委ねられる人種と、僕との差は、その一瞬、今その時間への没頭の差だと考える。
合唱コンクールって何の意味があんの?と問い、合唱コンクールと未来への結合を考えてしまう自分にはその問いの答えが無い限り一生合唱コンクールには没頭できないだろう。
違うんだ。グルーヴ感とは損得や、有意義無意味とかそういうことじゃない。今その一瞬に身を委ね、流れに身を任せ、ありのままを受け入れるその姿勢なんだ。
この考えは禅の心に似ている。
そう、若き日に見た、女子生徒たちからあふれ出るグルーヴ感とは、まさしく禅の在り方そのものだった。
もしかしたら、あの子たちは敬虔な禅宗の人間だったのかもしれない。
日本は無神論者の集まりだと思っていたが、実際は違ったようだ。
グルーブ感=禅の心=瞑想(マインドフルネス)
という結論に至ったわけで、グルーヴ感を得るために瞑想を実行することにする。
瞑想のコツは心に浮かんだものをただ客観的に見つめることとどこかで聞いた気がする。
クリスマス
僕
一人
というわけで、今年もまたグルーヴ感のないクリスマスを過ごします。
メリー苦しみます。
ー完ー