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「『受け入れる』」 #にじいろメガネ 連載(2024年6月号)
このポストは「アイユ」(公益財団法人 人権教育啓発推進センターの月刊誌)の連載からの転載です。諸事情により先方HPでの公開がなくなってしまったため、発行後にここで無料公開いたします。
試験的に投げ銭機能も設置していますが、全編が無料で公開されています。
渋谷区教育委員会は2017~2019年度の3か年をかけて、区内の公立小中学校(26校)をキャラバンで回る性的マイノリティ研修(全教員対象)を実施しましたが、中身は渋谷男女平等・ダイバーシティセンター(現 渋谷インクルーシブシティセンター)<アイリス>が担当しました。
関心のない人も対象とする悉皆(しっかい)研修は、工夫が必要です。弱者の側に立って熱心に耳を傾ける方が多い場(例:企業や行政の人権担当)だと、過度に罪悪感を感じてしまう人も多く、語り口を調節しますが、この時はむしろ困難部分を系統立てて説明した上で、ゲストスピーカーによるライフストーリー語りを重ねる形を採りました。
とはいえ、いまだ「かわいそうから始まる、哀れみの人権教育」の先生も多く、基盤となるインクルージョン(Inclusion。社会包摂、共生社会づくり)概念の理解深耕、「フェアでない」を起点とする人権意識づくりにも、同じだけ時間を割きました。
何百人も相手にしていると、無視したり、寝たり、内職したり、にらみつけたりと、拒絶を示す先生もいます。理解したくない気持ちに介入するつもりも必要もありませんが、日本ではいまだ「目新しい」性的マイノリティの人権課題、そして社会のシステムが対応する必要性への認知を広めるには、どんなに時間が限られていても、インクルージョンの概念説明が外せませんでした。
そして何より教員研修で一番興味深かったのは、企業研修やタウンミーティングと異なり、「受け入れる」という言葉が頻出することでした。
勤続数十年のベテラン先生もいますし、過去に受け持った生徒に性的マイノリティがいなかったはずはありません。一様に性的マイノリティの生徒を初めて受け持つかのような話しぶりに、「巣立った当事者が見たら、どう感じるだろうか?」と強烈な違和感を覚えました。毎年新しく生徒を迎えるという学校の特性を考慮しても、自分ごとで語れない姿勢は、奇妙でした。
暗に自分が平均/標準であることを前提として他人ごとで語る背景には、「規範/標準器たらねばならない」呪縛があるように感じます。標準的教育を提供せよとの圧、保護者からの圧、そして個としての教職員が顧みられない空気の中で、先生自身も息苦しいのかもしれません。それが標準でない他者を「受け入れる」(=理解してあげる)という言葉に現れてしまう。そうだとしたら、とても悲しい連鎖です。
先生も人間です。一人の人間として、巣立った生徒たちの中に「見えていなかった」当事者がいた過去と向き合えて初めて、学校空間での包摂推進のスタートラインに立てるのではないか、そう私は考えます。
ちなみに「受け入れる」という言葉を安易に使えなくなった私は、「受け止める/受け留める」という言葉を使うようになりました。
【参考】文部科学省性的マイノリティに関する施策まとめページ
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/jinken/sankosiryo/1415166_00004.htm
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