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五年間アメリカンスピリットを吸ってきた。
職場のみで一日10本くらい。
煙草が2021年10月から値上げしたので、いっそのこと禁煙してみようと思った私の体験記である。
10月に入ってから最後の一箱を吸い切ってスタート。まず、煙草を吸いたいと強く思う衝動の体験から。
度々感じたのは味や匂いの執着でなく、体験の再現を求めた衝動があった。きっかけはいつも煙草を吸っていた時間が近づいた時、車の運転時、食後、仕事が終わった瞬間だった。
衝動はものすごく短時間に感じた。1分ないしは30秒ほどで、残りは衝動の余韻が煙草の体験をフラッシュバックさせる。
初めは余韻の認識が無く、これがニコチンの依存性かと誤解していたが、気持ちの正体を掴めば完全に余韻であった。余韻には衝動ほどの強制力は無く、衝動に後追いした脳の働きが体験を再現しているだけで、これを理解して乗り切れば一度煙草のことは忘れることができた。
衝動と余韻を完全に分けて考えれば、煙草代を引き換えに自制が効く範疇にあった。最初の衝動の効果が切れている、余韻は切り替えが簡単だ。最初の1分は強烈だがそれ以降は煙草の呪縛を完全に振り切っていた。
結果として衝動は短時間だと理解し、余韻に強制力は無く、自制も容易いという経験の数をこなす、これがファーストステップだと感じた。
人間は慣れに弱い。
迷ったらいつもの方に、ダメ男としか付き合えない友人や、似たような色合いになるフォトギャラリー、じゃんけんの傾向など。選択の判断に脳みそを使わない時、無意識のうちに人は経験を優先させ、
それに囚われていると意識した時、逆張りや天邪鬼となり、別のパターンで成功体験を学習しようとする。
頭が煙草の衝動に慣れてきたら、次は体と行動を慣れに向かわせることにした。
いつも煙草を吸う時の行動を、煙草無しバージョンで体験し、体験の上書きをすることにした。
喫煙所のいつもの位置で煙草無し。煙草が吸いたいと感じたら喫煙所へ。
もらい煙草は野良猫に餌をやるようなものなので断った。
この時、自分の中の我慢の感情と向き合ってみた。
心の中はまるで川の流れる水面と穏やかな川底に二分されたような感覚だった。
絶え間なく変化する表層は喫煙の再現を求め、一方深い底の穏やかな面持ちで自制を完遂し、激しい水面を達観して眺める自分があった。
私は小さい頃、風呂の底に潜り水面越しの風呂場の明るさを眺めていたキテレツな趣味を思い出し、心の相反する二つの気持ちをじっくりと考えていた。
表面では流されやすい享楽主義な自分が、2分先のことまでしか考えられない目の前のカタルシスを求め、慣れない事を辞めるよう全力で腕を回しているが今は禁煙の長期化を体験するのが目的だ。
川底の自分に本質を投影するように、耐えるではなく、達観に身を任せて見ることにする。
経験を重ねて、障害の慣れを強制的に切り替える経験で塗り替える。
実験は経験の塗り替え、慣れを理解し自然とスイッチするように上書きすることを焦点とした。
14日経過して分かったことがある。
集中がものすごく続く。
休憩用に最後の追い込みをすることもなく、ものすごくフラットに自分のペースで仕事ができる。禁煙に成功して10年以上の人に聞いた「煙草に縛られるのが嫌になった」という言葉が、煙草を辞めて気づいた。
煙草を辞めて2回目の金曜日。
通勤路を駅に向かって帰っていると前に同い年の同僚の伊藤君がいた。
声を掛け、コンビニでビールを買い、タバコを吸いながらラーメンを食べて煙草を吸い公園で話して別れた。久しぶりに充実した金曜日だ。
禁煙は14日で途絶えたが、この一箱を吸い終えたらまた挑戦するつもりだ。
禁煙なんて簡単である。