ビジネスプロフィール(前編)
株式会社BRIDGEs(ブリッジ)と一般社団法人グローバルアスリートプロジェクト代表の田中と申します。プロアスリートのマネジメント、スポーツビジネスコンサルティング、英語×スポーツスクールを営んでおります。僕自身のビジネスプロフィールを綴っていきます。
今となってはネタにしかならない銀行員時代。毎日スーツを着て満員電車に揺られて嫌々会社に行って、社会人になってもアメフトをやってることで当時の支店長に毎日毎日朝から晩まで嫌味を言われながらいびられて、それをケアしてくれる上司なんかも誰もいなく見て見ぬふり…日曜にサザエさんが始まるとめちゃくちゃブルーになって…2年目からは直属の部署の先輩が異動になり、他店から補填もされず、10年目くらいの先輩がやっていた仕事が2年目のルーキーの僕に全てのしかかり、これまたそれをサポートしてくれる先輩も上司もいなく、殺人的な業務量を1人でこなして…いう生活の日々。
銀行を3年で退社し、当時OOHという言葉さえも浸透してない時代にOOHに特化した社員数十人くらい(当時)の広告代理店に転職。銀行という大企業からゴリゴリの超体育会系ベンチャー企業に転職し、自分自身の力で仕事も作って、クライアント開拓して、給料は会社から貰うものではなく自分で稼ぎ出すもの!稼がなかったらマジでクビになる・・・という本当の意味での仕事を覚える。ここで大企業病を一気に捨て去れたのが大きな財産。2001年頃に日韓ワールドカップのプロモーションの業務に携わりスポーツビジネスに初めて触れる。
社会人アメフト先輩の紹介でアンビションアクトを創業したばかりの伊東伸晃氏に出会う。渋谷区桜ヶ丘のマンション(6畳1部屋間借り)のオフィスで2人きりでスタート。さらに縁あって当時四国初のプロスポーツチームとなる徳島VORTISのJリーグ参入に向けてのクラブ作りをゼロから携わることになり東京と徳島にひたすら往復する。この頃は3年間くらい1日も休んだ記憶なし。この徳島VORTISの立ち上げに携わったことから、その後10年間に渡り、Jリーグクラブやプロ野球球団の様々な仕事を請け負うことになる。
当時大学院生だった木暮賢一郎(注:フットサル界のキングと呼ばれW杯3大会でフットサル日本代表の背番号10番をつけて活躍、引退後は指導者の道に進み現在はフットサル日本代表監督)と、当時名古屋グランパスに所属し、なかなか出場機会を得られていなかった川島永嗣に出会い、彼らのマネジメントを開始する。その後の彼ら二人の活躍はご存知の通り。
川島永嗣がベルギーに移籍したことで田中自身の仕事にも激変が!そしてこの頃の経験が後の田中に大きく影響を及ぼすことになる。
年間10回くらい海外出張に行くようになり英語が話せないことでとんでもない苦労を強いられる。35歳から英語を真剣に学び始めるも、日本で会社を経営しながら、仕事をしながら毎日のように英語を勉強するも全然成長しない自分自身の英語力に愕然とする。
語学に関する自身の苦い経験からアスリートマネジメントの一環として、海外に挑戦する日本人アスリートを語学面からサポートするというプロジェクトをロゼッタストーン(当時)からサポートを得て発足。これを機に200名以上の海外に挑戦する日本人アスリートと会って話をする機会を得る。そしてこの200名以上の海外に挑戦する日本人アスリートと会って話をしたことによって後にまた大きな影響を及ぼす。
6畳一部屋の間借りの一室から2人きりで始まり、10年間の全てを注いできたアンビションアクトを離れる決意をする。同時に株式会社BRIDGEs創業、グローバルアスリートプロジェクトを法人化し、新たな人生をスタートする。
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