言葉に疲れた自分を癒やすのは、言葉でしか無かった
タイトル通り。
最近は雑誌の方で知り合いを増やすために無理矢理つなげてもらって話したり、インターン先でがむしゃらに仕事をしている毎日。本当に、表情には出さないけど、毎日打ちひしがれてる。想像以上に厳しい現実と、自分の何も出来ない無力さに絶望し続けている毎日だ。
大好きなTwitterと、数少ない知り合い頼みの細い糸をフル活用して、いままで会ったことのないようなジャンルの人達と積極的に会ってきた。彼らは自分に対して、本当に色々な言葉をかけてくる。時には悪魔の囁きのような甘い言葉を、時には苦くて嗚咽しそうなほど厳しい言葉を。
職場の上司や大学の先輩、友人たちにも色々な言葉をもらった。中には、真っ赤に熟れたりんごを、黒という人もいれば白という人もいる。しかしそれはその人の意見であり否定できるものではない。私はそれに迎合せず、必至に理解して自分のものにしようとした。しかし、そんなのは所詮受け売りにすぎない。どこにも通用するものではなかった。
そんな不慣れなことをしていたせいか、正解も不正解もない言葉の中を必至で生きてきて、正直なところ少しだけ疲れてしまった。世の中そんなものだと分かっていながらも、自分はまだまだ未熟だった。その全てを受け止め咀嚼しようとし、受け流すという術を知らないのが今の自分だ。
まだまだ甘い。けど、疲れたものは疲れた。それ以上でも以下でもない。
「癒やされたい。」
そう思って手に取ったのは、本。やっぱり言葉だった。
本と言っても様々だが、最近はエッセイ集のようなものをよく読む。特に女性が書いた、柔らかく、しっとりしているような類のものがお気に入りである。それを読んでいる瞬間が一番心地よい。本に、そして自分に酔いしれる至高の時間だ。
世の中には、思っている以上に言葉が溢れている。多くの言葉を浴びて、それにいつの間にか操られながら生きていると思うと、もっと自分から言葉を迎えに行かなければいけない気がしてくる。ただ浴び続けているのは、なんだか悔しい。
常に生きる感覚を持ちながら生きるのは、意外とすごく大変なことだ。生きづらいこともたくさんある。全く無頓着な方が楽に生きれるというのは、まあ間違いない。
「もっと気楽に生きよう。」時々、そんな声も聞こえてくる。
でもやっぱり、ひとつひとつ考えながら生きたほうが素敵なんじゃないかと思う。どれだけ大変でも、やっぱり私は前者を選びたい。言葉を自分から迎えに行きながら、いちいち立ち止まって考えていきたい。
言葉を浴びて言葉に疲れ、言葉に癒やしを求めにいく。たぶんこれからは、その繰り返しになるだろう。それもまたいい。楽しそうな毎日が待っている。