法華験記 巻上 聖徳太子 その3
太子は十七条憲法を自らの手で書き上げ天皇陛下に提出しました。天下大いに慶びました。天皇陛下は太子に勝鬘経を講話するように依頼しました。太子は三日間、袈裟を身に着け手には僧侶が説教する時に持つ仏具を持ち、僧侶が座る席に上がり、全ての作法はまるで僧侶の如くでした。
お経の講説が終わった夜、大きくて綺麗な蓮の花が空から降り、朝廷にその様子が報告されました。天皇陛下はこの不思議なことを奇跡だと思い、そのお花が降った場所にお寺を建てるように指示しました。今の橘寺です。
天皇陛下は太子に法華経を七日間講説するように依頼し、その礼として播磨国(兵庫県あたり)の三百丁の水田を太子に与えました。その水田は法隆寺の領地となりました。
ある日、太子の傍にお后の膳氏(かしわでのうじ)がおられました。太子は「あなたは私の心の内を全て理解してくれて、今まで違ったことがありませんでした。私はまもなくこの世から去ります。あなたと同じお墓に入りたいと望みます。」と仰せになり、また、「私は前世で数十年に渡り法華経を読誦して仏道を修行し、今世では小さな国(日本)の皇太子になり、みほとけの教えの通り修行して、法華一乗の教えを広めました。もう輪廻転生を繰り返さずに浄土に往きたいと思います。」
お后はその言葉を聞いて、号泣しました。太子は再度、「私は今夜、この世から去ります。子を連れてこの場から去りなさい。」と仰られました。太子は沐浴をして新しい衣裳に着替え、お后も同じように沐浴して新しい衣に着替え太子の傍で夜を明かしました(一緒に亡くなろうとしたのでは?)。
次の朝、お付きの者が寝室の扉を開けると、太子とお后がお亡くなりになったことがわかりました。世寿49歳、この日、全国で太子がお亡くなりになった哀しみを表すかのような天変地異が起こりました。訃報を聞いた人々が道端ではむせび哀しみ、異口同音に日中も夜も関係なく世界が暗かったそうです。これから永きに渡り世の頼りとなる人が現れませんでした。
これから葬儀を始めようとした時、太子とお后の姿はまるで生きているかのごとく生き生きとしていて、そのお身体からとてもいい香りがしました。お二人の棺を持ち上げるとまるで布を運んでいるのではないかと思えるくらい軽かったといいます。
高麗の恵慈さんは太子の訃報を聞いて、驚き哀しみ、心に誓い次のように仰られました。
「日本の太子は誠に大聖人です。私と生きている国は違えど、心は硬い金属を切れるほど共にありました。私一人、ただ生きているだけで何の価値があるでしょう。私も今日、この場で太子の処へ赴きます。」
太子には三つの呼び名がありました。
①一度に沢山の声や内容を一言も漏らさず聞き取り、それぞれにしっかりお返事をされました。名づけて「豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)。
②全ての行動、威儀、作法、所作、悉く僧侶のようでした。勝鬘経、法華経の解説書を作り、仏法を弘めて沢山の人を救いました。名づけて「聖徳太子」。
③推古天皇は皇太子として王宮の南に住まわせ、国の内外の事を太子に任せておられました。名づけて上宮王(上宮太子)。
他、日本書紀、別伝に記載があります。
(終)