
人生最後のエンドロールには、誰の名前が流れるのだろう【短歌を一緒に考える】
僕の名前だけが流れるはずだったエンドロールがまだ終わらない
走馬灯を見ているのだろうか。この歌の主体はきっと、映画館のような場所で自らの人生を映し出した映画のようなものを見ている。
エンドロール。そこでは作品の制作に携わったすべての人の名前が流れる。
「僕の名前だけが流れるはずだった」ということは、彼はある時点まで自分の人生は自分だけで作り上げるものだと思っていたのだろう。
その感覚が孤独に裏打ちされたものなのか、それとも傲慢に裏打ちされたものなのかは分からない。
けれども、エンドロールには彼以外の名前が書かれている。それも「まだ終わらない」と感じるほど大量に。
人生を続けていると、時折、自分は1人じゃないんだと、ハッとする瞬間がある。
大学のころバンドサークルに所属していた。2年生になるといろいろ疲弊してしまい、やめようとさえ思った。けれど、コロナ禍になってやめるタイミングを失い、だらだらと在籍し続けていた。
少しずつ規制も世の中の風潮も緩まりはじめ、ぽつぽつと無観客ながらライブができるようになった。すると、ありがたいことに後輩がぼちぼち誘ってくれるようになった。
そんな中、とうとう僕たちの代の卒業ライブが始まった。友だちが希望してSUPER BEAVERをやった。
1曲目に披露した「東京」という歌は、次の歌詞から始まる。
愛されていて欲しい人がいる
なんて贅沢な人生だ
普通人は愛されたいと願う。けれども、それを飛び越えて、今後たとえ離れたとしても「愛されていてほしい」と思える他者がいることは、この上ない幸せだ。
コロナ前までは、自分を評価してくれない敵のような先輩たちをいかに納得させるかばかり考えていた。
けれども、その日、ステージの前には「愛されていてほしい」多くの同期や後輩たちの姿があった。それまでの努力や活動が、報われた気がした。
自分の人生は、自分だけのものではない。そんな当たり前のことにあらためて気づいたとき、初めてエンドロールに自分以外の名前が乗るのだろう。
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