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【エッセイ】適応と恭順
「住めば都」というよく知られたことわざがある。
これは「どんなに辺鄙なところでも住んでいればいずれ都のように住み心地が良くなる」という意味だ。
転じて今は「どんなにいやな環境でも長く居続ければ次第に慣れて気にならなくなる」という程度の意味で使われることが多い。
これは人間の性質をよく表している。
そもそも、人間に限らずとも生物はすべて、厳しい生存環境を生き抜くために、自らを環境に適応させる能力を有している。
そして環境に適応できなくなった生物は、自然と淘汰されていき、世界からその姿を消していく。
生き残った生物も、再び変化しゆく自然に適応し、適応し得ないものは敗者としてこの世を去る。
その後も生き残った生物の間で際限なくセレクションは続き、全ての生物が死滅しうるまで、その連鎖は終わることはない。
この適応能力の有無における淘汰の流れは、生物全体の営みの縮図とも言える人間社会においても変わることはないのである。
子は基本生まれ落ちた瞬間、家庭という小集団に属することになる。
成長すると、保育園や幼稚園という新たな集団への所属が決まり、突如家庭とは全く持って異質な環境下に晒されることとなる。
そこでは、友人関係という小社会への参入が半ば義務付けられており、子供は慣れない環境で公共性を身につけ、未知の社会を生き抜いていく。
その後、成長するにつれて、小学校・中学校・高校・大学や専門学校と環境を改めながら、その度に新たな環境に適応し、自らの属する社会の中で生き抜く術を学ぶ。
そうして、学校という準備施設において適応のノウハウを学んだ子供は、最終的に社会に旅立ち、荒波を生き抜く大人になるのである。
しかし、時にこうした一連の流れから零れ落ちるものがいる。
それは、学校という閉鎖社会において特に顕著に見られる。
学校の定めたルールに束縛されることを厭い、不良行為に走る者たち。
教室という閉鎖空間において絶対的な法規となるスクールカーストに集団で飲まれることから発生したいじめ行為により、登校不可となり、家に引きこもる者たち。
大学という自由空間において、放任に耐えきれず、誘惑に負けて単位を落とし、学校を去っていく者たち。
けれども、そんな彼らも、例えば暴走族や2ちゃんねる、バイト先などの新たな環境に適応しながら、日々生き抜いているということは変わらない。
人間はどれだけ逃れようとも、結局、どこかで誰かと繋がってしまうものだ。
我々は、そこで新たに生まれる環境に絶えず適応しながら、生からのドロップアウトを避け続ける他ないのである。
ただし、気をつけるべきことがある。
過酷な現代社会を生き抜く上で、適応は確かに大切だ。
しかし、周囲も環境に合わせるということは果たしてそのまま適応となるのか。
例えば、インディーズ・バンドを考える。
君は1980年代のジャパニーズ・パンクロックのような熱いライブをやりたいと思い、ある音楽レーベルに入る。
そのレーベルは、オールジャンルを謳っており、君は自分のやりたい音楽をできることに安堵する。
すると、マネージャーの尽力で所属レーベル内の複数のバンドで行う対バン形式のライブへの出演オファーをもらう。
自分の好きを追求し、納得のいくまで何度も練習を繰り返す。
いざ、ライブが始まると、流れてくる音楽は洋楽、それもフュージョンやジャズのインスト曲ばかり。
君は磨きに磨きをかけたパンクロックを披露するも、いまいち盛り上がらない。
ライブ後、肩を落とす君に、事務所社長が声をかける。
「君、熱唱するのはいいんだけど、動きが多すぎるんだよね。いい声はしてると思うから、もっと落ち着いた曲やりなよ。最近は洋楽っぽいおしゃれなやつが流行りだから。そっちのが受けいいと思うよ。」
それ以降、君がパンクロックを封印し、流行りに乗り、まとまりがよくキャッチーなポップスばかり出すようになるとしたら、これは適応と呼べるか。
こんなもの断じて適応ではない。
そんな信念の欠如した選択が適応だなんてあまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。
これは適応などではなく、甘ったれた恭順に過ぎない。
信念を捨て、周囲のルールや世間の流れに盲目的に従うだけの、中身の空っぽな移ろいに過ぎない、恭順。
適応と恭順。
境目を見分けることは容易ではない。
我々はどこまでが成長の糧となりうるか、どこまで他人を取り込んでもいいのか、常に考え続ける必要がある。
確かに、他人の意見に従えば、責任は自らの元を離れていく。
確かに、周囲に媚び諂えば、容易に賞賛を得られるだろう。
その甘美な魅力にあてられて、少し心を許すと、気づいた時には恭順に堕していることも度々である。
しかし、ドーピングの効力はそう長くは持たない。
綺麗なバラには必ず棘があり、聖人君子には必ず裏があり、覚醒剤には必ず副作用がある。
我々は、気をつけなければならない。
我々は、努力しなければならない。
シビアなこの現代社会の渦に飲み込まれ、藻屑となり消え果てぬよう、適応し続けようと。
そんな中でも自分を保つことを忘れず、恭順に堕さぬよう、常に自分を顧み続けようと。