🍺2024年5月18日(土)|野呂佳代と一緒にご飯を食べたい
リュロスは激怒した。(走れメロス風に)
タイトル欄に野呂佳代へラブコールを送るぐらい彼女に対する恋慕の念を強めていたというのに、今日、僕が見た『出川哲朗の充電させてもらえませんか?』は、100%中95%、野呂佳代ではなく、ウド鈴木だった。野呂佳代はなんとたったの5%。なんたる仕打ちか・・・。
であるなら、いっそのこと、100%中100%、始まりから終わりまで、ウド鈴木で通して欲しかった。最初の5%だけ野呂佳代。美人局(つつもたせ)か?
だとしたら、僕はまんまとディレクターの策略に乗せられたな。なぜなら、テレビに映った瞬間、「あっ、野呂佳代だ♡」とノロケたのだから。野呂だけに。
しかし、野呂佳代は、あっという間にバイバイしてしまった。そりゃあそうだ。なんてったって、残りの95%はウド鈴木なのだからな。「キャッチガール・野呂佳代」の役目はこれにて終了だ。こんな惨(むご)たらしい話もそうは有るまいて。
「 出゛川゛さ゛〜゛ん゛!゛」
野呂佳代との別れを惜しむ暇もなく、1音1音、「!」を付けているかのような凄まじい声量が、テレビ画面から聞こえて来た。見た目は確認出来ないが、この声、一度聴いたら忘れない、そう、紛(まが)う方無き、ウド鈴木である。
僕はほろ酔い状態からシラフに戻らされるような心持ちになった。いや、違うか。逆に酩酊状態になったかもしれない。頭の中がフラフラするような…。しかしそれは、アルコールによるものではなく、「野呂佳代:OUT|ウド鈴木:IN」という現実を受け止め切れていないことから起きたものだ。それだけは断言出来る。どれだけ酒に酔っていたとしても、それだけは。
「ウド鈴木って運転出来んのかよ・・・」
テレビを見ながら僕が無意識に呟いた言葉である。それを聞いた母が思わず横で笑った。僕の「24時間365日ハイテンションマンみたいな人間に電動バイクのハンドルを握らせても大丈夫なのか?」というニュアンスを孕んだボヤキを汲み取ってくれたらしい。嬉しい。“母は強し”とはまさにこのことだ。いや、ちょっと違うか。じゃあ“まさに”って付けんなよ。ごめんて。
そうこうしていると、合流シーンもソコソコに、出川哲朗とウド鈴木とディレクターは、目的地に向かって再出発していった。もう完全に野呂佳代の香りは無くなった。
“THE・男旅”
それも、年輪を感じる三人衆の男旅である。詳しくは分からないが、アラフィフ〜アラカン世代なのは間違いなさそうだ。シブいを通り越してムサい。いや、それだとシンプル悪口になるか。ごめんて。野呂佳代の幻影を僕はまだ追い求めているらしい。
中年男性三人衆の旅。視聴率を上げる一環で「紅一点枠」を用意するのが当たり前と化したバラエティ業界の波に逆らっていくスタイル。このキャスティング、メチャクチャトガッていると感じるのは僕だけか。野呂佳代の離脱は残念だけど、その姿勢は嫌いじゃない。アウトローで行こうぜ。
・・・いや、それにしても、いくらなんでもトガり過ぎだよ。「出川哲朗 ✕ ウド鈴木 ✕ 縫田ディレクター」って。何の悪気も無く“オジさんトリオ”と呼べちゃうんだもん。そんな彼らを見ながら酒を飲むアラサー男性の身にもなってくれよ。
せっかくの土曜日なんだよ。「チートDAY」と称して、週1ペースで、好きなものを飲み食いして、ワイワイやってるんだよこっちは。テレビでも目の保養をさせてくれたっていいじゃないか。
そう。目の保養。思い出した。僕は野呂佳代で目の保養をさせてもらおうと思ったのだ。なぜなら、番組が始まったら、ソコに野呂佳代が居たから。まさか始まって数分で居なくなるとは思わなかったから。
「よしよし、酒の肴にピッタリの女の子だ」
そう。野呂佳代と酒の相性は抜群。「酔ったら可愛く見える女の子」は確かに存在する。僕も理屈はよく分からない。誰か代わりに説明して欲しい。酒に酔うと“イイオンナ”に見える女性の特徴を。
あっ、先に釘を刺しておくけど、「酔ってないとブスに見える女の子」とイコールではないからな。勘違いすんなよ。そう受け取られて辟易となったことが何回もあるから。もう嫌になっちゃうよ。「酔ったらますます可愛く見える女の子」とでも言っておこうかしら。
受け取り方って難しい。自分でコントロール出来ないから。「愛嬌があって可愛い」と言うと「褒めるところがないから愛嬌でお茶を濁そうとしてる」とか「愛嬌を誉めるのは遠回しにブサイクと言っているようなものだ」と受け取る人が居るんだぜ。じゃあどうすりゃいいんだって話だよ、まったくよぉ。
この際だからハッキリ言っておく。僕が「愛嬌があって可愛い」と面と向かって伝えたとしたら、それは「あなたは僕のストライクゾーンにビシッと来てますよ♡」と意思表示していることに他ならない。ひいては「今後の展開次第ではあなたに告白したいと考えてますよ♡」というニュアンスも孕んでいると言っても過言ではない。
要するに、僕にとっての「愛嬌があって可愛い」は、僕の基準に照らし合わせれば、容姿などの外見について、可愛いだとか綺麗だとか褒めるよりも、もっともっと、上位に位置する褒め言葉なのだ。なぜなら、内面にフォーカスしているのだから。当然のことだろう?
それにもかかわらず「遠回しにブサイクと言っているようなものだ」と受け取られてしまう、この不条理・・・。如何(いかん)ともしがたい・・・。
このやるせない気持ち、何と例えれば良いのか。北島康介ならば「なんも言えねぇ」だろうか。小田和正ならば「言葉に出来ない〜♪」だろうか。コウメ太夫ならば「チックショー!」だろうか。
じゃあ僕はどうなんだ。経験則でいくと「ハッ」(鼻で笑う)であろうか。アハハ、一番、いけ好かないね。我ながら笑えない。アハハ・・・。ふぅ。
僕の価値観がズレているのだろうか。だとしても、“愛嬌原理主義者”のスタンスだけは崩せない。同調圧力に屈するくらいならば死んだ方がマシだ。
“死”というワードを用いたが、決して誇張ではない。心底そう思っている。僕が僕であるために。僕の人生を僕らしく生きられないなんて死んでいるのと同じだ。心が死んだ状態で生き永らえるぐらいなら死んだ方がマシだ。そういう意味で僕は言っている。
「野呂佳ッシュ、僕もう疲れたよ・・・」
「パトラッシュ」と「野呂佳代」を掛け合わせての「野呂佳ッシュ」は、いささか無理があっただろうか。まぁそんなことはこの際どうだって良い。ネロとパトラッシュみたいに、僕と野呂佳代が、横にピッタリとくっ付いた状態で、眠りにつきたい。今はそのことしか考えられない。
「ヤりたい」と感じる女性よりも「ご飯を食べたい」と感じる女性と付き合いたい。
【P.S.】
「僕が僕であるために」というフレーズを持ち出した瞬間から脳内再生が始まった。エンディング曲として載せておく。
こんな文章のテーマソングに使われるなんて天国に居る尾崎豊も浮かばれない。ごめんて。