【思い出】九州旅行 in 福岡 ~水炊き~【大学生】
<1枚目>
確か、このお店は、福岡では有名な、水炊きのお店だったと思う。
「水炊き」は「水たき」と表記するのが、一般的なのかしら。僕のパソコンの予測変換は、さも当然の如く「水炊き」しか出て来ない。「水たき」と表記しようと思ったら、「水」で変換した後に「たき」と平仮名で入力する必要がある。この仕様は、「水たき 長野」からすれば、快く思わないのではなかろうか?
・・・まぁ、僕の知ったことではないか。失敬。
その流れでもう一つ。「このお店は福岡の名店だ」と、一緒に福岡旅行へ馳せ参じた友人から紹介されたのだが、当時の僕も、今の僕も、「福岡の名店が・・・。長野・・・。」と、呟いてしまった。我ながらつまらぬ、と思いながらも、どうしても、触れたい衝動に駆られてしまう。
都道府県名が苗字の人は、毎回、「んっ」と思ってしまう癖が、僕には有る。例えば、チャットモンチーの一員として活動していた「福岡晃子」とか。「苗字が福岡だと『福岡県』の情報に反応しがちなのかなぁ・・・。」とか、色々と妄想してしまう。自分の身の回りには、都道府県名が苗字の人が居ないもので、妄想を膨らませることしか叶わないのが、残念だ。
唐突なラブコールで恐縮だが、福岡晃子のような女性と、付き合いたい、とまでは言わないから、お近付きになれたらな、と思う。なんなら、苗字が都道府県名とか、そんなことは、もう、どうでもいい。福岡晃子のような女性がいい。・・・いや、正直に打ち明けると、福岡晃子が、良い。何かの間違いでお近付きになれないものかしら。
僕は、その場の勢いに駆られて、愛をぶちまけて、後で悔いるも、文字通り、後の祭り状態となって、”アイツに近付くと危ない”と思われて、女性から距離を置かれて接せられることが、度々、ある。
悲しいことに、僕は、そういう、些細な変化にだけは、敏感に察知してしまうタイプなのだ。鈍感であるべきところは敏感で、敏感であるべきところは鈍感、そんな悪癖を、僕は有している。
<2枚目>
「なにやってんだコイツ」
お目汚し失礼しました。美味しそうな水炊きの上部に、メニュー表を台にして、アゴを乗せて、口を半開きにして、ベロをベーッと出している人は、僕です。若かりし頃の僕です。10年ぐらい前の頃の僕です。不快な思いをさせて申し訳御座いません。まだ「若気の至り」が通用する年齢でしょうか。未成年まででしょうか。精神年齢は三十路を迎えた今も未成年の自信はあるのですが・・・。
それはさておき。(で良いのかな・・・。)
この流れだと、「あぁ、『水たき 長野』に入って、水炊きを食べているんだな」と思われるであろうが、実は、違う。「水たき 長野」には、入れなかったのだ。
僕達は、はじめから、「福岡に着いたら晩御飯は水炊きで決まりだな!」と話し合っていたわけではなく、「何食っても美味そうだよなぁ・・・。」と、福岡のソウルフードに胸を躍らせた結果、晩御飯どきになっても決まらず、という、絵に描いたような失敗パターンを辿ってきた挙げ句、友人の一人が、「そういえば、『水たき 長野』という店が有名で・・・。」という話を持ち出してきたのだ。
その話に僕達はのっかって、「水炊きって、つまり、鍋のこと?」「鍋なのかなー。よぉわからんけど・・・。」「まぁ、有名な店だったら、間違いないだろう。行こう!さぁ行こう!」と、「水炊きファン」の方が居れば、思わず憤ってしまいそうなぐらい、水炊きへのリスペクトが微塵も感じられないまま、「水たき 長野」まで足を運んで、ガラガラッと、勢いよくドアを開けたのだが、
「すみません。今日は、貸し切りの予約が入っておりまして・・・。新規のお客さんはお断りしているんです。申し訳御座いません。またの御来店をお待ちしております。」
・・・と、美人な女将さんに、懇切丁寧な物言いで、お断りの旨を告げられ、深々とお辞儀をされてしまったのだった。
女将さんは、芸能人で例えれば、木村多江であろうか。お淑やかな中に、薄幸の影を感じさせる、「魅力的」と形容するよりも「魅惑的」と形容したくなる、そんな女性だった。ゆえに強く記憶に残っているのだと思う。
好みは人それぞれであろうが、僕は、前者(魅力的)の女性よりも、後者(魅惑的)の女性に弱い。具体的に言えば、「なんかこの子は放っておけないんだよね・・・。」だとか、(思い上がりと言えばそれまでだが)「この子は僕が居ないとマズいんじゃないのか・・・。」などと感じる女性に、滅法弱い。
そんな恋愛観もあってか、僕と恋人を指して「共依存は良くないぞ」と指摘される経験が、何度かあった。そのたびに、僕は「共依存ではない。相互依存だ」と、言葉遊びのような反論を投げかけるのが、恒例となっていた。
周囲の助言に対して、聞く耳を持っていなかったわけではない。むしろ、図星だと感じることの方が、多かった気さえしている。「相互依存だ」と反論していたのは、「『相互依存』の関係が理想の状態だと自分自身考えているのだが、現実は『共依存』の関係のまま推移している」といったもどかしさから来る、言わば、理想と現実の乖離を憂う気持ちから出た言葉なのかもしれないなと、今振り返ると、思ったりもする
・・・今にも脱線しかねないので、話を戻そう。
僕達は、木村多江似の女将さんに対して、
「あっ・・・。いえ、こちらこそ、すみません。急に来てしまって・・・。また出直します。ハイ・・・。ハハ・・・。(愛想笑い)」
・・・と、もてなされ方に慣れていなかったのもあってか、終始、ドギマギした口調で、ペコペコと会釈をしながら、その店を後にしたのだった。
そういえば、あの時、確かに、「また出直します」と述べたのだけど、それから、「水たき 長野」はおろか、福岡県にすら、足を運んでいない。これはつまり、飲み会終わり等に、「またこのメンツで飲もうや!」の、「また」が、一向に来る気配が無い、といった現象と同じ悪行を、僕達は犯してしまっているわけだ。
僕は、「社交辞令は紛らわしいからやめてくれ。『二度目は無いな』と思ったのなら、何も言わないか、もしくは、ハッキリと、『次は無いかなー(笑)』と言ってくれた方が、コッチも気が楽だ」とよく述べる。にもかかわらず、「また出直します」と、話の流れで、口をついてしまった。
「もう10年近く経っているのに何を今更・・・」と思われるかもしれないが、あの時、僕は、「また出直します」と言った以上、いつか、その言葉通りに、「水たき 長野」へと、足を運ばなければならないと、密かに、けれどもハッキリと、思っている。
これは僕自身の問題だ。一度交わした約束は果たさなければならぬ。社交辞令による「また出直します」ではなかったのだと、自らの行動によって証明したいのだ。
僕は、マイルールに縛られ過ぎて、雁字搦め(がんじがらめ)になることが、よくある。この状態は四字熟語で例えると「自縄自縛」と言うらしい。太宰治の作品『ダス・ゲマイネ』で知った。あの作品に出て来る「馬場」の一挙手一投足に、「わかりみがふかい・・・。」となるのもあって、思い入れの強い作品の一つだ。
僕は、新たに面識を持つ際に催されるイベント、自己紹介やアイスブレイク等の時に、「何事もはじめが肝心だ!」「ココでつまずくとレッテルを貼られることになるし、自ら、レッテルを貼ることにもなるんだぞ!」と、無駄に張り切り過ぎて、逆に失敗する、もしくは、本来の自分とは異なるキャラクター像のレッテルを貼られることになり、”この人達からは僕はこう思われているはずだ”と、道化を演じるかのような振る舞いを見せることが、しばしばある。
いかん。病気ですね。
共感してくれる人が居ると嬉しいなぁ。(ポツリ)