2024年4月19日(金)|アメブロが「こえのブログ」を廃止
記事によると「2024年3月25日(月) 14時頃」に「こえのブログの新規投稿」が廃止されていたらしい。遅ればせながら、今知った格好だ。
なぜこのタイミングで知ったかというと、
これが理由である。
僕は、アメブロの「こえのブログ」機能を用いて、毎日投稿を行なっていた。また、貯め撮りでUPしており、今日、まとまった量の音声記事を予約投稿する予定だった。
しかし、「こえのブログ」の項目が、どこを探しても見当たらず、「あれ〜?おかしいなぁ」と思って、検索をかけてみると、なんと廃止されてしまっていた、まぁ、そんな流れである。
「こえのブログ」の特徴は、最大録音時間が3分という点にある。かねて、僕は「話が長い」だの「冗長」だのと言われ続けて来たし、僕自身、そのきらいがあると自覚している。そんな僕だからこそ、一問一答形式で、端的にスパーンと答えられる「こえのブログ」は重宝していたのだ。
なお、余談ではあるが、「話が長い」と言われるたびに思い出すのが、太宰治『葉』に出てくる、このフレーズである。
しかしまぁ、反論を投げかけるのも無粋だし、“隙あらば太宰治”と言われるのも癪なので、僕は、何も言い返す事なく、ただただ、お茶を濁すように、「悪癖、悪癖」と言いながら、苦笑いを浮かべるだけなのであるが。
そしてまた、こういうシチュエーションになると、決まって思い出すのが、太宰治『人間失格』の、このフレーズである。
失敬、長くなった。
そこまで思いを巡らせた上で、自身の行動を“言い返さなかった”のか、それとも“言い返せなかった”のかを、何度も何度も考えては、結論が出せず、いつまでもいつまでも、モヤモヤを抱えていることが多い。
そういえば、昨日も、“変わらない”と“変われない”について、思いを巡らせていたような気がする。何故か僕は異常に気にしてしまうらしい。
例えば、恋愛だと、
“会わない・会えない”
これは誰しも一度は直面したことがあるのではなかろうか。会えない状況だから会えないのか。会える状況なのに会わないのか。一般的には、後者の頻度が高まると、俗に言う“潮時”とお互いが察知することが多い。
物心がつく前から(だと僕は勝手に思っている)、僕は、結果に着目するよりも、過程に着目する癖のある子どもだった。「動機説」を唱えたイマヌエル・カントを敬愛しているのも必然と言える。それが大人になった現在も続いているのであろう。誤解を恐れず言えば、子どもの頃よりも、“拗らせ感”が強いきらいがあるが。自らの戒めとしておきたい。
「・・・いったい俺は何の話をしてるんだ?」
「こえのブログ」廃止を受けて、これまでお世話になりました、等の感謝の言葉や、こんな記事を投稿した思い出がある、等の振り返りの言葉を書き綴るつもりが、いつのまにか、太宰治に侵食されてしまっていた。
こんなんだから「お前の話は何が言いたいのかサッパリ分からん」と言われるのだろうなぁ。