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【エッセー】恋人が居た頃は子どもの名付けを良く考えてたなぁ/笑・ポイント10選

名前「笑」への私見

今日、家族との日常会話で、名前に「笑」という漢字が入っていることについて、お互いに意見を述べ合う機会があった。そこから着想を得たのが、今日の記事のタイトルである。

はじめに断っておくが、この項は、あくまでも、僕の私見に過ぎない。話半分で聞き流すぐらいが丁度良い、と思いながらも、どうも僕は、「私はこう思う」と、言いたくて言いたくて仕方のない性分のようで、その欲求を解消するために、この場を借りて、一つ、書かせてもらおうと思う。先に謝っておく。ごめんなさい。

とりわけ、子どもに「笑」の漢字が入った名前を名付けた方、もしくは、将来、そうしようと考えている方からすると、気分を害される恐れもあるため、プラウザバック推奨の旨も、併せて筆記しておく。

では、本題に入ろうか。

コホン。

実は、僕自身、高校生の頃ぐらいまでは、子どもの名付けに「笑」という漢字を入れたいと思っていた。

理由は単純で、ことわざ「笑う門には福来る」に代表されるように、笑っている人のもとには、福、つまり、幸福が向こうからやって来る、そんな価値観を僕も持ち合わせていたからだ。

また、理屈上の理由を度外視したとしても、僕は、「笑顔フェチ」と公言するぐらい、人が笑っている顔を見るのが好きな性分でもある。幸福だとか不幸だとか、損得勘定うんぬんの前に、そもそも、好きなのだ。むしろ、こちらの方が、主たる理由だったかもしれない。(後付けになるが)

では、なぜ、考えが変化したのか?

それに関しては、明確なキッカケが、あったわけではない。ゆえに、いつ頃だったかも、よく思い出せない。ただ、大学時代だったのは、間違いないはずだ。

僕は、誰に言われたわけでもないのに、ふと、考え込んでしまった。

「もしも、自分の名前に『笑』という漢字が入っていたら、『いつも笑顔を絶やさず、辛い時や苦しい時こそ、明るく振る舞おう』などと自らに言い聞かせてしまうのではないか・・・?」

と。

そう思ってからは、僕には、そうとしか、感じられなくなってしまった。言わば「強迫観念」である。根底にあるのは、親への想い。親から授けられた名前。「いつも笑顔で居て欲しい」などの願いを込めて自分に名付けたのではないか。であるならば、親の期待に報いたい・・・。

僕ならば、そう考えるのではないかと、思い至った。

だが、もしも僕が、親の立場だったとしたら、その生き方は、本意ではなかった。「親の期待に報いる子ども」よりも「たとえ親の期待に背いたとしても自らの人生は自らの力で切り開く子ども」に成長して欲しいと考えるはずだ、と思ったからだ。

そこまで思い巡らせた上で、僕が出した結論が、「子どもの名前に『笑』という漢字を付ける行為はNGとする」だったわけだ。

重ねて言うが、これはあくまでも、僕の私見、並びに、マイルールの一つに過ぎないので、「へえ~、そんな人も居るんだ」程度に、聞き流してもらえばいい。

事実、もしも僕が、本当に、子どもに名前を付ける機会がおとずれた、となった時に、パートナーである恋人(もしくは妻)が、「子どもの名前に『笑』という漢字を付けたい」と申せば、「ほう、なるほど」と返そう、という心構えは持っているし、話し合いの場をしっかりと設けて、お互いが納得する形で、GOサインを出そうとも思っている。

そう。名付けは、一人で決めるものではないのだ。多くの場合、話し合いによって決められるものだ。場合によっては、恋人間(夫婦間)の枠を超えて、近親者への相談や助言等も仰ぎながら、最終決定に至るケースだってあることだろう。

年齢を重ねるにつれて、”子どもの名前は僕の一存では決められないものだ”、という、言ってしまえば当たり前のことに、気が付いていった僕は、徐々に、考えること自体、少なくなっていった。これは、良い意味で、と申し添えておくべきだろう。

そんなわけで、久しく、メモ帳アプリのフォルダ「名付け」のページを開いて来なかったのだが、今回、ふと物思う瞬間があったので、良いキッカケだと思って、ココで一度、過去のメモを振り返ってみたいと思う。

僕自身、内容を見ないと、どんなことをメモしているのか分からない状態なので、なんだか楽しみだ。大掃除の際に出て来たノートをチェックするようなワクワク感と、良く似ている。

さぁ、行ってみよう。


メモ帳①(名付けポイント)

「あぁ~・・・。」
「はいはい・・・。」
「うんうん・・・。」

そんな感嘆詞と共に、数回、目を通した。なるほど。今現在、名付けに対する価値観と、さほど変わってはいなさそうだ。「この話題になると同じことを言いそうだなぁ」と感じる内容がほとんどであった。

個数を数えると10個あった。記憶は定かではないが、当時の僕が、絞りに絞って選び抜いた、珠玉の10個だったのかもしれない。

一つずつ、「僕が〇〇と考える理由は~」などと書いていくと、キリが無いので、うーん、どうしようか、今、特に書きたいと感じたものを、ピックアップする方式にしようか・・・。

コホン。

まず、1つ目の「2文字」は、もうずっと、昔から言っている気がする。これは本当にブレない。理由も単純明快。2文字の名前の人が、周りの人間から、苗字で呼ばれているのを、僕は見たことがないからだ。これまた、もう何十年も、同じことを言い続けている。理由もずっと変わらない。

たった今、フッと、「V6の三宅健は『健(けん)』だけど『三宅くん』と呼ばれているのをよく聞くぞ?」と、こんな時だけ鋭い指摘をしてくるもう一人の僕が反論してきたのだけど、相手をするのが面倒臭いので無視しよう。

・・・まぁ、確率論的に、と付け加えておこうか。少なくとも、僕が現実世界で知り合ってきた人々は、名前が2文字の人は、みな、名前呼びされていた。そこに魅力を感じたし、僕自身、2文字の名前の人は、名前呼びしやすいし、シンプルに呼びやすい、という点も大きかったと思う。

あっ、そうそう。

話は前後するが、僕は、「苗字」よりも「名前」で呼びたいし、呼ばれたいタイプである。この理由も単純で、苗字は「家系全体」を指すのに対して、「名前」は「その人自身」を指すと考えているからだ。であるならば、名前呼びした方が良い、と考えるのは、極めて自然なことだと、僕は思っている。

ただ、この考え方に沿う形で、誰彼構わず、安易に名前呼びをしてしまうと、「コイツ、馴れ馴れしくね・・・?」だとか「コイツ、距離を詰めて来るの早すぎね・・・?」などと、相手に警戒心を抱かせることに繋がりかねないので、注意が必要だ。(経験者は語る|特に異性には気を付けるべし)

あとは、4つ目の「男女ともに名乗れそうな名前」も、僕としては、結構強めのこだわりポイントになるのかな。この考えは、おそらく「LGBTQ」に影響を受けたものだと、僕は考えている。

僕の原体験としては、「はるな愛」の本名が「大西賢示」であると知った時の、「本名と芸名、かすりもしてへんか・・・。」であった。かするか、かすらないか、の是非は置いておくとして、子どもながらに、「まぁ確かに『賢示ちゃん』は、さすがに厳しいか・・・。名前を変えざるを得ないわなぁ」と感じたことは、今でも鮮明に記憶している。

そして、時が経ち、「LGBTQ」をはじめとした、「セクシャルマイノリティ」や「ジェンダー」という言葉を日常で耳にするようになって、僕が思い至ったのが、「身体的性と性自認の不一致が起きたとしても、『自分の名前のままで活動する』選択肢を与えられるのではないか?」だった。

名付けの話題になると、「男の子だったら〇〇、女の子だったら△△」と答えるケースが、良く見られる。そのことに、多少の(あくまでも「多少」である。僕も、その言い回しを用いることだってある。注釈を加えるとは思うが)違和感を覚えてしまうのは、僕だけだろうか。

ただ、今では、考えが偏り過ぎてしまったかな、と思い直し、多少、丸くなってきた感はある。でも、それでも、いざ、名前を付けるとなったら、男女共に名乗れそうな音を選ぶのかなぁ・・・とも、思う。繰り返しになるが、パートナーと要相談、になるだろうが。

そろそろ、次の項へ行こうか。


メモ帳②(名付けリスト)→ 脱線 → 後半に回す

「おぉ~、なかなかの情報量・・・。」

たった今、「男女ともに名乗れそうな名前」についての私見を述べたにもかかわらず、「【男】」の欄も、「【女】」の欄も、ギッシリと埋まっている。これが僕たる所以とも言えよう。

常にどこか、自己矛盾を抱えているような・・・。「この感覚って僕だけなの?」「それとも大小あれどみんな持っているもの?」などと思いながら、今日も、今こうして、惑いながら、手探りで、文字を書き綴っている。

僕は、日頃、「たとえ馬鹿を見ることになったとしても正直者でありたい」と主張しているにもかかわらず、いざ、自分の書いた文章を読み返したり、人との会話を振り返ったりした時に、「あの時、ああ書いたけど、本当にそうなのかな・・・。」「あの時、ああ話したけど、本当にそうなのかな・・・。」などと思い煩うことが、しょっちゅうある。

もう一度言う。「しょっちゅう」だ。この有り様では、「正直者でありたいと言っているにもかかわらず、嘘ばかりついている」と受け取られても仕方ないよなぁ、と思うレベルで、自分が書いたり話したりした言葉に、「んっ?」となることがある。

そうして、僕は再び、思い至る。「どれが本当の自分なのか?」ではなく「どれも本当の自分なのだ!」と。少なくとも、書いたり話したりした、今この瞬間は、正直者として振る舞っていたのだと。それがたとえ、時が経って、嘘つき者に見えたとしても、だ。

ゆえに、僕は、過去の発言等を掘り返してきて、「〇〇はあの時△△って言ってたのに、今では◇◇と言っている」などといって、矛盾を指摘するような輩を好かない。

ここまで書いて、あるニュースを思い出したので、リンクだけ貼っておく。

・・・失礼、話が逸れた。

ちょっと、「名付けリスト」からピックアップして、つれづれと書き出す気分ではなくなってしまったのと、あと、内容のボリューム的に、前後半に分けて、「男・女・男女」の3つの項に分けて書き出した方が、自分としても納得のいく出来になりそうだと思ったので、今回はココまでにしようと思う。分量的にもね。

ちなみに、峯岸みなみは、かわいい。好きだ。僕は、小野恵令奈推しだったのだけど、彼女が脱退してから、峯岸みなみに乗り換えた経緯がある。それぐらいには好きだった。その後、川栄李奈にゾッコンの時期があって、大家志津香に落ち着き、現在に至る。

特に、大家志津香に関しては、存在を認知してはいるが、好意を寄せることはない時期が長く続きながらも、人間性に惹かれて、惹かれて、惹かれて、一気に、好きになった。多分、決め手は、『川の水抜いてみた』だったと思う。我ながら、だいぶ遅い。己の節穴を恥じ入る。

「大切な人は、案外、近くに居るものなんだってね」

「美人は3日で飽きる」が真実だとすれば、「第一印象はそうでもなかったけど、相手のことを知る内に、ドンドン好きになっていって・・・。」という気持ちは、半永久的に続くものかもしれない。

大家志津香、好きだ。

結婚報道が出ても、純真な想いで、「笑顔の絶えない家庭を築いてください」と祝福出来る、そんな彼女の人柄が、僕は大好きだ。

なんちゅう終わり方してんねん。(セルフツッコミ)

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