むき出し


 「「歴史」っていうのは、そういうのは嫌いだけど、でもあなたがそう言う理由はわかるっていう、そういうことが歴史の価値だと思っている」

 シラス の番組で歴史学者の与那覇潤さんがそう言っていたのを記憶している。兼親大樹著小説『むき出し』も、一つそういうことが主題になっていると感じた。歴史というものは、人が想像しない限り存在しない。なぜそう考えたのか、糸を手繰り寄せるようにこの小説の中から感じたこと、シーンを思い返す。
 『むき出し』の主人公石山は、自分の過去を思い返す、つまり、自分が今に至るまでの歴史を思い返しながらこの小説は進んでいく。その運びは綺麗だ。売れた芸人である石山が、ある日記者に過去のことを聞かれ、そこから石山の過去の話になる。私たちはその話を知っている。なぜなら、この小説を手に取る人は、ある程度は著者の過去の報道について知っていることだろうし、しかも売れている人がスキャンダルによって世間から叩かれるという構図は近年よく見るからだ。ここで私たちは「その人が何をしたのか」の話になることを予感すると同時に「そんなに悪い人ではないよ」と説教くさくなる可能性を察知する。しかし、そうはならない。この小説はそんなロジックとは別に、非常に風通しがよく、かつ多角的である。
 物語は先述の記者の取材から始まり、そこから過去に遡り石山の幼少期から大人になるまでの期間を描いている。石山の家庭はひどく貧乏で、玄関はボロボロ、食べるものもあまりない状態だ。幼少期の石山はやんちゃで、いたずらばかりしては親や教師に怒られていた。序盤、どきっとする描写が突然現れる。

 「ジジは泣いても泣いても殴るのをやめてくれない。男なんだから強くなるためだと言ってボクシングをしてくる。」p.14

 石山は祖父に虐待されていると思わせるような描写である。こういった何かかわいそうに思えるような描写が幼少期に限らず何度か現れる。

 「全部おれのせいだ。おれがしょうくんにやらせたからだ。やらせた?しょうくん笑ってたじゃん。楽しくなかったの?いやだったの?わからない。わからない。わからない。
 その日からしょうくんは、遊んでくれなくなった。みんないなくなる。いつものことだ。」p.25

 中学では教師に暴力を振るったということで教師に押さえつけられ、貧乏を言い訳にするなと、ひどい言葉を浴びせられる。

 「は?急に貧乏って言い出したけど、なんでだ?俺の人生が全て言い訳?
 つか人の前で、お金がないなんて言ったことねぇぞ。
 お前は、貧乏を言い訳にしてると判断してたんだな?
 お前が知ってるのは、ノートも持ってなくて、教科書は兄や姉のお下がりってことだけだろ。
 それを見て言い訳だと思ってたのか?
 これが言い訳?貧乏が言い訳?新聞配達しなきゃやりたいことも出来ないんだぜ?俺だってみんなと同じような普通の家に生まれたかった。それに、まず殴ってない。やってないのになんで責められなきゃなんないんだよ。
 こんな奴らの前で泣きたくないのに、悔し過ぎて涙が出てきた。」p.96
 
 父親は会社を潰し、母親は癌になり、石山は高校をすぐ退学し働き始める。悲惨な話で盛り沢山だが、明るい、心温まるようなエピソードも随所にあり、不思議と暗く重たい雰囲気はない。妹とのうんちのシーンは声を上げて笑ってしまったし、父親との会話も、星空誕生日ケーキも穏やかな気持ちになった。それは著者の語り口によるところが大きい。しかしなぜだか、ぴんと張った弓の弦のように、ひんやりとした温度と質感を常に感じる。妹とのうんちのシーンも、父親との会話も、星空誕生日ケーキもこの石山の境遇のうえで笑えてしまうという現実の冷たい壁が常に背後にある。私たちは、それをやはり考えずにはいられない。
 ここまでざっと幼少期から中学生時代までを振り返りつつ私の感想を書いてきたが、ここからはとても重要なシーンばかりで、全て書くには文量が多すぎるので断念しておく。ただ、簡単にまとめるとするならば、本当に簡単にざっくり言うならば、石山は高校を中退し働き始めたあと、何度も仕事をやめては転々としながらいろいろな経験を積み重ね、自分が狭い世界にいることを知る。本当にざっくりとしたまとめだが、その後がすごい。
 石山は、結局過去のスキャンダルで仕事が激減する。石山に向けられる誹謗中傷の言葉は散々なものである。

 「「美談にするな」「性犯罪者」「ベビーシッターやってたとかゾッとする」「金庫泥棒」「詐欺師」「強姦魔」「世に出てはいけない人」「工場で監禁されながら働いて」「産んだ親が大罪人」「犯罪家族」「被害者は今も苦しんでるぞ」「今もやってる目をしてる」「コイツと仲いいヤツも全員反社」「犯罪者とかどうでもいいけどつまんないのにテレビ出んな」「正当化してる」「一生のお願いだから消えてくれ」「人類に悪影響」「存在が不快」「日本の為に死んで下さい」「許されると思うなよ」「この世に必要のない人「てかだれ?」「生まれてきた事が罪」「普通の人間じゃない」」p.238

 しかし、これらの石山に向けられる誹謗中傷の言葉へのまなざしが、小説を通して見ることで変わる感じがした。その言葉はラジオの中で「ナイフ」や「曲芸」といった形でメタファーとして語られる。その言葉たちは、石山のまなざしを通して「使い方」を迫られる。あるいは「動かし方」。ひどい暴力描写や、気分の悪くなる教師いびりの言葉や、石山自身が受け止めた大人たちの言葉は、尚のことその歴史に目を向ける構成になっている。歴史とは、こちらが想像しなければ存在しないものである。あの言葉はこういう意味だった「かもしれない」。あの時自分はこんなことをしていた「かもしれない」。その思考を、石山は少しずつ獲得し、本を読むことでより膨らませる。

 「孤独感に押し潰されて、どうやって膨らませればいいかわからない」p.127

 こう言っていた石山がである。
 そして、歴史。歴史は想像しなければ存在しないと言ったが、まさに石山自身がそれを証明するようなことを言っている。

 「そして、今の今まで、記憶から無くしていた。不都合だからだ。
 
 ジジから殴られていた時、本当はその前に何か悪いことをしていなかったか?

 小学校の墨汁事件も、無理やりやらせていたんじゃないか?

 先生への暴行事件。あれは、本当に殴っていなかったのか?

 詐欺と決めつけたテレアポだって、実は真っ当な会社だったかも知れない。

 俺の思い出は、都合よく書き換えられている可能性がある。
 全て過去の映像として残されていない。
 1秒前の思い出は、事実ではなく、不確かな記憶の一部でしかないんだ。」p.212

 ここの場所は、読んでいる方はお分かりだと思うが、色々な読み方ができると思う。私はこう読む。
 その前に、私が先ほどから言っている「歴史」というものは、「振り返って得られるもの」という意味である。これは歴史の教科書にも言えることである。なぜなら、歴史とは「書かれたもの」のことを言うのではなく、想像した人の中に立ち現れてくるものだからである。例えば「福沢諭吉」という文字がある。これを見て私は「学問のすすめ」や1万円札を想起するが、アメリカに住む外国人が見たらどう思うだろう。「japanese」という印象しかないのではないか。文字にはそれを見る人の解釈が含まれる。では文章になるとどうだろう。これは日本人同士でも解釈が分かれてくるだろうし、もっと言うと何を信じるか信じないかもそれぞれが決めていいのである。そういった意味で歴史とは個々人の中にそれぞれ存在する、つまり複数個あるものだ。さらに言うと、何かを認識するとき、その何かの歴史を想像しなければそれを認識することはできない。例えば、地面に線を一本引く。「一」。これを文字だと捉えるにはどうすればいいか。私たちは当たり前にこれを漢数字の「一」だと捉えることができると思うが、ではこの線を木の棒を振り回して遊んでいる猿が偶然地面につけたとしよう。私たちはこれを漢数字の「一」だと認識するだろうか。しない、いや、できないのである。なぜならそこには文脈が存在しないからだ。私たちはその行為の文脈を振り返り、「ああ、漢数字の「一」って書いてるんだな」と理解する。故に文脈のかけらもない猿の遊びでできた「一」は「一」と認識することができない。「振り返って得られるもの」が無いからである。そして、循環するが、「振り返って得られるもの」というのが「歴史」であり、「歴史」というものは個々人の中にそれぞれ存在している解釈の分かれるものであり、しかもそれは都合よく書き換え可能である。
 それを踏まえたうえで、私はこう読む。

 「歴史は、不確かな記憶の一部でしかなく、如何様にも書き換えられる不確実なものである。無くすこともできる。つまり私たちは、そういった存在である。」

 なぜ私が文字のメタファーを使って「歴史」を語ったかというと、この『むき出し』という小説がそういう構造になっていると感じたからである。先ほど書いた石山への誹謗中傷の数々は、それ自体文字である。しかし、この小説を通してその文字を眺めると、いろいろな角度からその文字を眺めることになる。なぜこんなことを書くのだろうか?正義感からだろうか?暇潰しだろうか?この文字を打っている時、この人は仕事中だろうか?孤独なんだろうか?恋人がいるのだろうか?主婦だろうか?学生だろうか?今、何を思って生きているんだろうか?この人たちの気持ちを全部汲み取ることはできないし、この文字を見ている石山は、きっとこの人たちを否定しないだろう。この文字たちは何か意味がある「かもしれない」し、何も意味が無い「かもしれない」。この時点では判断できないほどこの文字たちには歴史が無い。しかし、この小説自体が文字を使って紡がれていることが、不思議な感覚を私に与える。その誹謗中傷の文字も、小説というフォーマットに載せれば、「小説」になってしまうということだ。つまり私は、この誹謗中傷の文字を、先ほどまで石山の物語が紡がれていた同じ書体の文字で読んでいる。このこと自体も私の一解釈にすぎないのではないかと、ツッコミを入れてくる。『むき出し』はそういうメタツッコミを入れてくる。小説の中でもそれは表れている。

 「自分を加害者だと認めることで、被害者面を作るのももう充分。
 人は被害者だと強く思った時、加害者になり得るんだ。
 「取り調べ行くよー」
 「あっ!はい」
 やっべ。今、顔めちゃカッコつけてたわ。目細くして遠く見てたもん。うーわ。浸ってんなぁって思われたじゃん絶対。開ける時はノックくらいしてくれや。」p.213

  ここは私は、一瞬著者の顔が浮かんだものである。これは私の著者に対するイメージでしかないが、明らかに読者を意識してここでツッコミを入れている。そしてそれは、私たちを意図してのツッコミ、石山に対してではなく著者自身に向けられた視線に対しての反射のような気がしてならず、それがまた面白かった。
 
 わたし自身将来に向かって不安な気持ちでいっぱいな大学生である。そんな私がなんだか読めてしまったこの小説は、私がこれから「膨らませる」もののために、私自身のためにあるような、そんな気がしたものである。
 
 最後はexitファンとして、兼親大樹さんの小説完成を祝して。「イグジッ!」
 











 

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