幸せ学 第27回 遺伝子の奴隷からの目覚め
われわれが「わたしはこうしたい」とか「これが自分の考えだ」とか思うことって、本当にどこまでが自分なんだろうか。
ちょっとやってみてほしいことがある。
できるだけ静かで落ち着いた場所がいいんだけど、
「無」でいる、ということをやってみよう。
無でいる時は、なにも考えない。
いろんな音とか、姿勢とか、ちょっと痒いところとか、ちょこちょこ気になると思うけど、そう思っても、できるだけ自分の「無」に戻ろうとしてみて。
はい、どうぞ。
なかなかできないと思う。というか、きっとできない。
そして、いろんなことが頭に浮かんできたんじゃないだろうか。
その浮かんできたことって、果たして「わたし」なんだろうか。
別の言い方をすると、浮かぶように差し向けたのは誰なんだろう。
たとえば今わたしの頭の中に突然「こんにゃく」というワードともに
グレーで点々があってべろべろんしたイメージがでてきたんだけど、
わたしがこんにゃくを出そう!とはしていない。と、思う。
突然のように思えるけど、何かの情報をキャッチして、そこから無意識下にある「こんにゃく」の引き出しが開いて、脳内に展開されたのか。
何しろ、わたしがわたしと思っている範囲以上にもわたしがある感じがするし、それを広げていったら、もう他の人々も動物も植物もみんなつながっているんじゃないか?なんていう仮説をわたしは信じている。
そして、どこまでわたしなのか?という視点で言うと、
・腹が減ったからご飯が食べたい
・眠たい
・おしっこがしたい
これはわたしが感じている。感じたら、それに従って行動する。
・あの人が好き
・あの人とあんなことがしたい
・あの人とこんなことがしたい
なんていうのも、わたしの感覚よね。
でもそれってなんだろう、本能的なものじゃない?
生きるためにご飯を食べる、寝る、おしっこする、人を好きになる。
それって生まれる前から決められていたというか、人間そういうふうにできているというか。わたしなんだけど、わたしが決めたことじゃない、とも言えない?もともとそう、というか。
そういう、生まれる前から決まっている本能的な事を、わたしは「遺伝子の奴隷」と呼んでいる。それに従うようにできているから。
でも他の動物と違って、考える事ができるのが人間ですから、
奴隷解放宣言よろしく、自由になることだってある程度できるのではないか?というのがわたしの思うところね。
例えば、ご飯食べたいって思うけど、本能の赴くままに食べちゃうと太っちゃうじゃない。現代病よね。昔と比べてご飯がいっぱいあるんだもの。だから、腹8分目がけんこうでいいわよね、ということでみなコントロールしている。
恋愛だって、そう。人を好きになるのはさ、自然なこと。
けど、好き勝手恋愛してたら社会はぐちゃぐちゃになっちゃうから、一夫一婦制にする法律を人は決めて、社会の健康を保っている。
そんなもんだから、自然に従ったら誰とでも好きになっていろんなことをいろんなひととしてめちゃくちゃになるところを、人間として頭を働かせて、他の人は好きにならないように、好きになってもそれはいけない恋だと思って止めたり、メディアの中の有名人を好きになったりして自分を満たしている。
本能に従ってちゃうとその後困っちゃう部分を、賢い人間は未来のことを考えてコントロールしていると思う。
本能で生きる部分も大事にしつつも、その先の事を考えること。
わたしはわたしなんだけど、わたしはわたしじゃないんだから。
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