見出し画像

この世は悲劇だ。

 この世は悲劇だ。我々は盤上の役者に過ぎない。シェイクスピアも似たような言葉を遺しているが、それはまさにこの世界の本当の姿をぴたりと言い当てている言葉だと僕は思っている。いつかは訪れる終わりへ向かって、それとは知らずにただ演じるだけの役者。そこに実際の人生との区別があるとするならば、観客が彼ら自身であるということだろう。男も女も、自分を表現したいという思いは、いわゆる自己啓発へと至り、小難しい哲学書の一行へと進化する。そんな煩わしいこの世界を逃げ出して、世界の外へ向かいたい。それは、天球の世界に生きていた中世のヨーロッパ人が、世界の淵を落下する船とその乗組員を描いたのと同じ気持ちなのだろう。だが、幸か不幸か。僕らは人生の外という物を感じることはできない。僕を演じている誰かの存在に僕自身が気付くことはできないし、逆に僕が誰かの人生を演じることもできない。どこかの世界にいたかもしれない誰かを、誰かの役を僕らが文字通りロールプレイできても、本当の意味で成り代わることなんてできないのだ。
 けれど、僕はそんな人生を愛することができるだろうか。そうして、思考は漂着する。今度は、愛の問題だ。愛は困難で、力で、絆で、欲望である。男と男。男と女。女と女。愛が何を意味するかはそのいずれにおいても同じものだった。ただ異なることがあるとすれば、それは言葉の上での違いだろう。だが、人生を愛するとはどういうことなのか。生まれてこの方の僕の全てを形作った出来事―おそらくそれらは、良いこともあれば悪いこともあるだろう。それらの全てを、ただ受け入れるということはできるのか? いや、受け入れるだけなら簡単かもしれない。現に受け入れたくないのであれば、我々は既に死んでいるだろう。死んでいないのであれば、それを受け入れて生きているということだ。では、それを愛せるか、と言われると、たちまちそれは困難へと直面する。ニーチェが狂ったのはその困難故だろう。人生を、おなじ人生を何度も繰り返すという超人の思想は、結局のところ、矮小な僕らには崇高すぎる理念なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?