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【短編小説】シロ

遠くで聞こえた体育の号令に、聴こえないふりをした。
八月の鬱陶しさがかすかに残る布団をのけて、窓から流れ込む冷ややかさに身をさらした。
――こうでもしなければ、きっとまた夢に引きずり込まれてしまうから。
よれた制服の裾を手のひらではたいて、胸元の居心地の悪さを外して、一つ大きなあくびをした。
保健室の先生が開けていった窓から、ふと秋の匂いがした。

「また眠くなるわよ」

横合いからそんな声がかかって、彼女はようやっと目が覚めた気がした。窓の縁に前足までそろえて、しっぽをけだるげに垂らして、声の主はこちらを見つめていた。

「ひさしぶりね、シロ」

その毛並みは、シロにまぶした茶色の斑点が目を引く、おおよそ芸術品かと思わせるような、柔軟性を持っていた。
つまるところ、彼女は猫なのであった。

「そうね」

「なによ、冷たいなぁ」

脱ぎ捨てた靴下をはきなおして、彼女は頬を膨らませた。
そのまま最後まで裾を上げてしまうと、ベッドに腰掛けるようにして、彼女は話を続けた。

「夏休みでしばらく会えなかったからって、拗ねてるの?」

「別に。そんなことないわ」

ついっと顔を背けて、シロは貴婦人のような足取りで床へ降りた。音もなく、一切の煩さもなく、床と一体になるかのような、違和感のないそれだった。「猫」背とはいったい何なのかと思うほどの背筋の強靭な柔らかさに、思わず手を添えたくなる。

「プールサイドにいれば、会えたのに」

夏休みにあった水泳練習のことを、彼女は思い出した。太陽の煩わしさに肌を灼かれて、水着が少し窮屈で、それでも水に沈む心地よさを覚えた夏のことを。

「子供は嫌いなのよ」

「私だって子供だよ」

「そういうことじゃないわ」

「じゃあ、私のことは好きなんだ?」

「そうみたいね」

からかってやるつもりで言ったのに、思いもよらない返しに胸が跳ねた。

「みたいって。自分のことなのに分からないの?」

上ずりそうな声と、抱き着きたくなる衝動を抑えて、彼女はそう言った。
風にあおられたレースカーテンが、二人の間に茶々をいれるように舞う。

「まるで他人事じゃない」

「そういうこともあるのよ」

今思えば、その横顔には、甘えと拒絶が入り混じっているのかもしれなかった。日の陰りに渦巻く相反する感情が、不愉快なほどに澄んだ九月の始まりを思わせた。

「それより――いいの?体育をサボって」

「サボってるわけじゃないもん」

ふと耳を澄ますと、水と戯れる無邪気な声たちが風に乗ってやってくるところだった。誰かが飛び込んだのか、ひときわ大きな水しぶきの音と、野太い怒号が飛んでくる。

「今日もプールみたいだけど?」

「別にいいもん。泳ぎたくないし」

肌にさらりとなじむような九月の空気は嘘でできているんだろう、とその時思った。嘘に色があるのなら、きっと、こんなくだらない秋の色であってほしいと願った。

「ねぇ」

沈黙が凍り付いたようなそこだ、彼女は不意に言葉をこぼした。呟きにも値しない微かな声だったが、薄べったい耳をツイっと向けて、シロは声のする方を向いた。

「トランプしない?」

保健室の戸棚には、そう言う類の娯楽がいくつか眠っていることを、彼女は知っていた。何処の誰のものかなんて知る由もないが、薄い茶色に侵されつつあるそれらは、幾人もの手の中を通ってきたに違いなかった。

「・・・・・・私、カード持てないわ」

「なら、神経衰弱」

「私がひっくり返してあげるから」

劣化したプラスチックス・ケースのトランプたちが並び終わるまで、さほど時間はかからなかった。同じ柄がいくつも並んで、まるで京都の町を見下ろすような心地よさを感じながら、シロが差すカードをめくった。

「ねぇ」

「何?」

「さっきのって、どういうことなの?」

「さっきの?」

「自分のことなのに、分からないってやつ」

「あぁ」

シロは、足というにはあまりに華奢なそれで、めくりたいカードの淵をつついた。可愛らしい手先のすき間から、爪の先端が此方を覗いたように見えた。

「――分からないわ」

「分からないの?」

床に伏せたカードの一枚を、ぺらりとめくる。
そこには、こまごまとした小さなダイヤマークが七つばかりあった。

「矛盾に慣れ過ぎたせいね、きっと」

肌を撫でるような風が吹いて、半透明なヒゲが神経質に揺れた。
レースカーテンの向こうで、誰かがあくびをするような風の音が聞こえる。

「子供が嫌いでも、私は貴方とここにいる」

――自分に嘘をついてるの。ずっと。

そう言って、彼女は二枚目のカードの上へ手を下ろした。

「だから、いつも揃わない」

カードの裏は、ハートの4だった。

「やっぱり、シロの言うことは難しいよ」

「そうかも、ね」

そこで初めて、シロは微笑んだ
――ように見えた。

名残惜しそうなそぶりを見せて、二人のトランプは顔を伏せた。

歪んだ碁盤を直している間に、彼女は、めくったはずのカードの数字達を、おおよそ忘れてしまっていた。
 


あとがき 「空の余白に、君と揺蕩たゆたう」

猫と会話ができたらどんなにいいだろう、と思ったのは、確か小学二年生のころだった気がする。
祖母の飼う猫に嫌われ、気に食わない理由を教えて欲しい、と思ったのだ。

もうかなりの年寄りで、最近は寝てばかり。
引っ掻かれた傷はもう跡形もないが、雨故に固まった地は、どうやら建在のよう。

相変わらずミステリアスで、自己中心的で、それ故に人は猫を愛するのかもしれない。


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