ある秋の落日
誰も知らぬ丘へゆき、
そこに座って泣いていたい。
涙で水車が回るほど。
────『siuil a run』
絵画に描かれたように儚く、美しい女性が、遠くの山に隠される太陽をじっと見ていた。
田舎の丘で、誰かを待つようにじっと。
顔を見られたくないらしく、彼女は木の株に小さくなって座り、くたびれた外套のフードを引き上げた。
それでも彼女のさらさらとした金の髪と、小ぶりで綺麗な形の鼻を見ただけで、美人だとすぐに分かる。
王都の人だろうか、と彼は思った。
なら馬車で同乗できるかもしれない、と思いつつ、その女性に近づいて、地面に座った。
彼女はこちらに一目もやらず、ずっと遠くを見ていた。
「……こんにちは、ジャゼリ(未婚の女性に対する呼び名)。王都に帰るの?」
彼はひっそりと話しかけた。ようやく彼女が首を回して、ほんの少しだけ傾けた。
「はい。迎えを待っているのです」
百合のように繊細で綺麗な声だ、と彼は思った。触れれば壊れてしまいそうな、硝子細工のような。
「馬車を? そうだ、いつ来るか知ってるかな。 時間通りに来たことがなくてね」
彼女はふ、と笑いともつかない息をこぼした。彼はそのことに少しだけ驚く。笑いそうにない人だ、と感じたから。
「時間に緩いのですね、ここの街道は。……けれどお役には立てません。わたしは、知人の馬車を待っていますから」
彼は少し首を傾けて、彼女の顔を覗き込む。
話してみると意外と、しっかりと喋ってくれる。見た目は冷たく、無愛想に見えるけれど、その知人という奴は彼女の色んな面を知っているんだろう。 彼にはそれがちょっと羨ましく思えた。
「残念だ、ジャゼリ。けれどこの丘から見える夕日を、あなたとご一緒できただけでも嬉しいよ」
風が一陣吹いて彼女のフードをはらりとめくった。
音さえないほど静かに、可憐に、彼女の顔がはっきり夕日に照らされた。彼女はその蒼く輝く瞳を、しっかりとこっちに向けて微笑んだ。
「ええ。わたしもです、こんな綺麗な夕日が見られて」
彼は息をすることも忘れて彼女に見入った。
きっとこの先こんな綺麗な人に出会うことなど絶対にないだろうと、彼女の面立ちに魅入った。
そばによることを拒むような神聖さでいながら、微笑まれるとこの世界にふたりしかいないような感覚にとらわれる。
あえかな肌は絵画の下地のように白く、それに夕日が色を投下した。長く伸びたまつ毛はさながら妖精で、瞬きのたび金の鱗粉が舞っているかのように思えた。
────まるで、触れてはならぬ密やかな花のように。
夕日に照らされながら、彼女はまた視線を戻した。
彼ははっとして、話題を探して、村の女たちが畑仕事をするときに歌う曲を思い出した。
「このあたりに住む者が歌う、哀しい歌を知っていますか?」
彼女はさくっとした声色で返した。
「知りません。歌ってもらえますか」
どうして、このときこの曲を思い出したのだろう。
彼はあとになって何度もそう考えて、彼女自身の曲のように思えたからだ、と結論づける。
丘の上で。一人佇み、誰かを思う女性。
きっとそれは、彼女のように美しく、どこか寂しい雰囲気をまとう人なのだろう。
彼はわりあいにはっきりとした、綺麗な歌声で歌った。それが彼女に対する別れであるように。
誰も知らぬ丘へゆき、
そこに座って泣いていたい
涙で水車が回るほど。
どうかご無事で、愛しい人よ。
行って、行って、愛しい人。
そっと静かに、出ていって。
扉まで行って わたしを連れて
どうかご無事で、愛しい人よ。
糸巻きも糸巻き棒も、糸車も売ったわ
愛しいあなたに、鋼の剣を買うために。
どうかご無事で、愛しい人よ。
行って、行って、愛しい人。
そっと静かに、出ていって。
扉まで行って わたしを連れて
どうかご無事で、愛しい人よ。
下着を染めるわ 赤く染める
そして街でパンを恵んでもらうの
親にも見放されるくらいに。
どうかご無事で、愛しい人よ。
行って、行って、愛しい人。
そっと静かに、出ていって。
扉まで行って わたしを連れて
どうかご無事で、愛しい人よ。
歌い終えた頃、彼女はぼそりと呟いた。
「哀しい歌ね」
彼はそう呟いた彼女から目を逸らし、もう半分ほども出ていない太陽を見つめた。
「ええ。このあたりは元々先住民の土地なんだ。それで、この曲が」
彼女はなるほど、と頷いた。
「けれど美しい曲ですね。歌い継がなければならない」
「そうですとも。この土地の歌は、みな美しいのですよ」
彼女がくすり、と笑った。それだけで、どこか胸が暖かくなる。
この、どこか寂しい人には、できるだけ笑わせてあげたいと思う魅力があった。
それは華やかな美しさでなく、ひっそりとした山百合のような美しさをもつ彼女に似合う、素朴な魅力だった。
「あなたは恋人が戦地にゆくとき、どうしますか?」
そう問うと彼女はどこがおかしいのか口を隠してくすくすと長く笑った。
そのあと大きく息を吐き、そうですね、と呟いた。
「ついていきます。同じく剣を持つでしょう。決して死なせません」
そう語る彼女の顔が、とても真面目だったから、きっと彼女なら本当にそうするだろうと思った。
会話が途切れた。
気まずいとは思わなかった。
密やかな空気が彼女には似合う気がしたが、そうあって欲しいと思ったわけではない。
馬が地を蹴る音が聞こえてきた。
「あなたはあの馬車に?」
彼女が丘の下から姿を現したみすぼらしい馬車を指して言った。
「ええ。王都へ行くんです。長旅になるでしょう」
辺境の地だから、王都へはあの馬車だと何日もかかる。慣れたことだ。
馬車がやがてそばに来た。粗末な板の小さな馬車。御者は細面の男で、不景気な雰囲気が痛いほど伝わる。
彼は立ち上がり馬車の鐙に足を置いた。彼女にもう会えないのは少し寂しかったが仕方ない。手を振ろうとして、すぐ後ろに彼女の気配を感じて立ち止まった。
「待ってください」
「なんですか」
「あなたは農民ではないですね」
「ええ、違います」
「商人でもない」
「ええ」
「あなたは」
振り返ったら彼女の真摯な目とかち合う。こうして彼女は仕事に取り組んできたのだろう。真面目で、愚直な瞳だ。
「僕はここの領主です。黙っていてすみませんでした」
彼は頭を下げた。
そんなことは彼女にもすぐ分かっただろう。彼が着ていたのは、普通の農民では有り得ない高価なものだった。
それに、それは彼も同じだった。
「そしてあなたもただの王都の女性じゃない」
「ええ、違います」
「貴族でもありませんね」
「ええ」
「あなたは」
そうして何秒か目を合わせていたが、すぐに彼は首を振った。
「やめておきましょう。僕はただの田舎者で────あなたはただの観光者だ。身分を問うのは不毛です。会うのなら、あとで王都にて会いましょう。今度は別人として」
彼女は複雑な顔をした。いけない、美しい顔を曇らせてしまった、と彼は頭を搔く。
「今日のことは、美しいある夕焼けの日だと思いましょう。あの歌は美しかった、そうでしょう?」
彼女は身を引いて、頭を下げた。そして先ほどまでの美しい顔で微笑み、そうですね、と言った。
「さようなら、ジャゼリ。王都までの道が、恙ないことを祈ります」
彼は馬車に乗り込み、手を振った。幻にしてしまうには美しい人であったし、惜しい。
……行って、愛しい人。
「さようなら。あなたの道も、安全でありますように」
さわやかな風に乗って、そんな声が聞こえてきた。一種の妄想かもしれないし、本当に言ってくれたのかもしれない。
先程の女性は幻であったのかもしれない。ある秋の夕に、妖精が気まぐれに魅せた鮮やかな幻。
そんなことを思いながら、しかし、こちらに真っ直ぐ視線を向けていたあの蒼い瞳を幻と思うことはできなかった。
彼は目を閉じた。
馬の足音と御者の鼻歌が聞こえる。
ひどく綺麗なものが瞼にこびりついた。それを悔やむこともせずに。
2021年にキャラクター掘り下げのために書いたものです。
引用・アイルランド民謡「Siuil a run」
和訳: http://www.worldfolksong.com/sp/songbook/ireland/siuil-a-run.html 様を参考にさせて頂きました。
またこの短編はフィクションであり、実在の国・団体などとは一切の関係がありません。
ありがとうございました。