感情を抱けない女と、それを愛した男の話

 こんにちは。

ご覧いただきありがとうございます。柳野です。

 一ヶ月ほど前に書いた短編小説を少し手直ししたものです。 設定としてはありがちなものですが、文が気に入っているので公開させていただきます。

ジャンルとしては恋愛になるのでしょうか……ファンタジーではなく、二十世紀初頭のヨーロッパの貴族家をイメージしておりますが、ファンタジーとしても読めるかもしれません。

 では、どうぞ。

──────


幸せなんて贅沢なもの、わたしには。
彼女はいつもそう言う。本当は、贅沢なものなどと一ミリも思っていないくせに。

「はじめまして。わたしは────」
 出逢ったとき、私たちの運命は決まっていた。
つまり、領主とその妻。父の死後私は伯爵位を継ぐ。なんて大層なものじゃないけれど、とにかく、許嫁として彼女はやってきた。

 亜麻色の梳った髪と、狼のごとき瞳が薄幸そうな、まだ十六の娘だった。

形ばかりの領主とはいえ、妻の身分はある程度選りすぐりで、北方の貴族からの娘だった。なるほど、雪肌も北の雪に染められたと見える。

彼女はとても静やかな人で、日中は本を読んで、夜は編み物をした。それはずっと変わることのなかったルーティン。崩せば死ぬのか、と思うほど、どこに行ってもこのサイクルは変わりなかった。

あらゆることに造詣が深く、また器量の良い人であったから、私も彼女を愛した。今も愛しているし、おそらくメイドたちも彼女を気に入っているはずだ。

 彼女を愛し、子をなした。広い田園の広がるこの地で、娘と息子はすくすくと育った。時とは早い。とどまることなく進んでいく。

 彼女は笑う。やはり幸薄そうに、どこか遠慮するように、口角を上げる。それだけの笑み。

いつからだろう。次女が死んだあとか。父が死んだあとか。わからない。
いつの日か唐突に気づいた。

おまえは、いつも笑いたくないように笑うね。
ふっと気づいてそう問うた。

「真実、笑いとうないからです、旦那さま」

彼女は躊躇なく言ってのけた。いっそ辛そうにしてくれたなら悩みの種を探った。
その言葉は私の心を抉った。

妻と連れ添うて十年、私は幸せだったし、なにより彼女もそうであるという確信があった。男として妻を幸せにさせるのは当然のこと。ましてや領主ともあろう男が、その妻の幸福さえ築けなかったなど、醜聞にすぎる。

 私が嫌いか、と問うた。頷いてくれたら解決のしようもあろうが、彼女は静かに首を振った。

「違います。あの、わからないのです。嫌いとはなんでしょうか。わたくしはなにもわかりません」

そう言って彼女は手元の本に視線を下ろした。
そうか、と私は頷いた。
彼女は損なわれていた。
生まれもってのものかは定かでないにしろ。

──

「旦那さま、これは」
友人に聞いたが、世の女たちは花を好むらしい。確かに花は私も好きだ。
それに彼女は美しい。百合のように淑やかな花が良く似合う。
「百合という花だ」
つよく芳香があたりに漂う。酔うような香りだ。
彼女は目に見えて困惑した。
「それは、わかっていますが」
七輪の百合の花束を、彼女は白い指でそっと受け取った。その指は百合などよりよほど美しい。

「美しいだろう」
彼女は頷きもせず、じっと花弁を眺め、何秒かあとに。
「ありがとうございます」
と言って本に視線を戻してしまった。

どうやら、失敗したようだ。

──

「────。このテンプルは、トウダイジというそうだ」
鹿のふんの臭いが鼻をつく。
車から降りて門を見上げる。
「美しいだろう」
彼女の顔を見た。日本という国の謙虚さは、彼女に合いそうだと思った。

「どうしてあの二つの像は、あのように恐ろしい顔をしているのですか」
彼女は興味なさげに、門の両脇にそびえ異邦人を見下ろす像を指さした。

そんなの知るわけがない。それに、別に知りたいわけでもなさそうだ。
失敗。

──

「旦那さま、今日はどこへ」
車の中で彼女はそう聞いてきた。
これなら彼女は喜ぶと思った。だっていつも彼女がしていることだ。
「首都の図書館だ。おまえは、本が好きだろう」

彼女はやはり、変わらぬ表情で首を振った。
「それしかないから読んでいるのです」
……他に暇つぶしなどいくらでもあるだろう。

失敗。

──

「────! 見ろ、指折りの職人に織らせた布だ、裁縫にいくらでも使うといい!」
これなら絶対に喜ぶ、と思って彼女の部屋に駆け込んだ。ベッドの上で、彼女は刺繍をしていた。
彼女はときおり、作ったマフラーやハンカチなんかを私にくれる。実に見事な刺繍が入っているときもある。私はすべての彼女の作品を大切に使っている。

彼女は真っ直ぐな目で私を見て、
「好きではありません」
と、はっきり言った。

失敗。

──

「なあ、────。おまえはなにがしたいんだい」
私はそう問うたことがある。
「わかりません。したいと思ったことがないので」
にべもなくそう言った。そうか、欲求も感じないのならばわからないだろう。

では、次は彼女の趣味を見つけてあげたい。
好きでもないことをずっとやっていても、つまらないだろう?

──

「あの、旦那さま。わたくしの服は、それに適しているようには思えません」
乗馬にさそって、十秒で失敗した。
私は馬鹿だ。

──

「────、メイドが庭仕事はどうだと言っているぞ。花を愛でるのも君によく似合うのではないかな」
メイドのくだりは嘘だ。
彼女は庭の薔薇園のあいだに立ちすくみ、まわりの紅を見回した。
「愛でる……とは、なんでしょうか」
本当にわからない、という顔でそう呟いたので、可愛くて笑ってしまった。
「毎日手をかけて、慈しみ、見守り、ときに助けてやることだよ」
そう言うと、彼女は少し考えたあと、
「それならば、旦那さまはわたくしをメデているのですね」
と真顔で言った。

失敗。というよりは、完敗。

──

「今日は美術館へ行こうか、────。美に触れるのも、たまには悪くない」
私は美術館、博物館等の案内を手に持ち彼女に見せた。
彼女はそれらに一瞥をくれ、そのあと少し厳しい顔をした。
「行きたくありません」
どうやら、絵は嫌いらしい。

失敗。

──

「今日は……どこへ行きたい? ────。海もいいが山もいいぞ。丘陵地で羊を眺めるのもいい。自然に触れるのはどうだい?」
彼女は少し思案した。今日は長女の許嫁に会ったので、その顔に少し疲労が見える。申し訳ない。

 彼女は意外なことに、頷いた。
「それは、悪くありません」
彼女が初めて、私の提案を受け入れた。
これほど嬉しい日は子供が生まれて以来だ。
私は急いでメイドを呼びつけ、短い旅の手配をした。

──

「旦那さま」
近頃は、少し、少しだけ、動くのが億劫になる。
医者が来て、妻と話しに隣室へ行き、すぐに彼女は帰ってきた。彼女の顔はいつも通り。だから、重い病気ではないんだろう。

「なんだい」
「庭にある桃色の花をつける木はなんですか。一本だけ立っていて景観にそぐわない気がするのですが」
なんでも遠慮なく言う彼女に、私は苦笑する。ここ数年は彼女に遠慮がない。もう少しお淑やかな女だった気がするが。

「あれは桜だよ。日本で知り合った園芸職人に、送ってもらったんだ」
あれは美しい花だからね、と私は言った。
「そうですか」
「そうなんだ」

彼女は私の隣に座って、カーテンの奥にある桜の木を見る。私にはわかる。彼女はきっと、あの花を美しいと感じている。

彼女を損なわれている女だと思っていた。
近頃、そうは思わない。
彼女は単に、なにかを感じること、思うこと、欲することが苦手なだけだ。
だから大丈夫。きっと彼女は、彼女自身がそうは思わなくても、幸福に生きていける。

──

わたしは旦那さまの部屋にいる。
部屋に太陽の光が差し込んでいる。
丁寧に手入れされた庭から、薔薇の香りがする。
旦那さまはベッドのうえで休んでいる。
医者には出払ってもらった。メイドたちにも。
旦那さまが、そう望んだから。

「────」
わたしの名前が呼ばれた。旦那さまは苦しそうにわたしに手を伸ばす。どうしたらいいのかわからないけれど、その手をそっと握る。

「なんでしょう、旦那さま」
そろそろ、サクラの葉が落ちる。何ヶ月かまえ、まだ旦那さまが歩けたころ、その名を教えてもらった、東洋の植物。

わたしはついぞその花を美しいと思わなかった。
旦那さまはその花を大層愛でた。君のように美しいなどと言って、一番大切にあの木を育てた。
この地にそぐわぬはずの木は、やっぱり元気なさげに頭を垂れる。

やはり、なにも美しくない。愛しくない。
旦那さまの死の床にあって、わたしはなお、なにも感じられなかった。
これが不幸なことだとも思えない。
世界はいつも冷たく、わたしを一枚薄い壁で隔てる。
旦那さまはわたしを、損なわれた女だと思っているようだ。しかし、実のところ、損なわれているのはわたしではなく世界の方だ。

つまりが。
世界には、なにも感銘を受けるものがない。
それはつまり、世界が損なわれているから、感じ取れないのだと。
傲慢で、浅はかな思考をする。

旦那さまはわたしの手を力なく握る。
どんな思いでわたしの手を握るのか分からない。
彼はそれを愛だといったが、わたしには苦しいときに人の手を握る趣味はない。
握るのなら布団でも握っておけばいいのだ。
わたしにはそれがわからない。

「おまえは、まだ、私を愛していないかい」
急に、喘鳴じみた声で旦那さまは言った。
やっぱりその答えは否だった。
旦那さまはわたしの沈黙を悟って、にっこりと笑った。
「おまえは、美しいな。さしずめ、美しすぎるからこそ、世界になにも見出せないのやもしれぬ」
わたしは旦那さまから視線を逸らし、枯れゆく庭を見た。

わたしは、自分を美しいと思ったことなどない。
わたしは、世界に在りたいと思ったことなどない。
わたしは────、わたしは、旦那さまこそ、不思議だと思う。

きっとこれが最後だから、わたしは聞いた。
「旦那さまはどうして、わたしをメデタのですか」
かつて、薔薇の園で旦那さまが教えてくれた。
愛でるとは、毎日見守り、手をかけ、時折助けてやることだという。
そうなら、旦那さまはわたしをメデているだろう。旦那さまはいつもわたしに世話を焼いて、助けていた。

旦那さまは笑った。

「それは……」
旦那さまは目を閉じた。
さながら神のように。
ああ、そうか。
旦那さまは神になるのだ。
もう手の届かない場所へ。
それはどこだろう。
旦那さまは、ええ、旦那さまを。
「愛しているからだよ」
変わらない言葉で、旦那さまは言った。

そして、終わった。それきりだった。

……やっぱり、わからない。
わたしはなにもわからなかった。
愛も、美も、欲も、怒りも、辛さも、悲しみも、なにひとつ得られなかった。
旦那さまが逝ってなお、わたしにはわからない。
わからないことがもどかしい。頬をなにかが伝う。
わからない。なぜわたしは、わたしは。

わからないのです、旦那さま。愛とはなんなのでしょうか。いま、泣いているのは愛ですか。わかりません、旦那さま。教えて欲しいのは愛ですか。愛を知りたいのは愛ですか。あなたの''愛"を知りたいと思ったのは愛ですか。

──

────あなたが、いなくなって。
この屋敷が、少し広すぎると思うのは、愛ですか。
ティーカップが余るのに違和感を覚えるのは。
サクラに苛立ちを覚えるのは。

──

少しはわかります。わかるようになりました。
メイドたちが、旦那さまの眠るサクラの木の下を訪れるのは、あなたを思い出しているからだと。

──

少しはわかりました。
娘が嫁ぎました。
屋敷はやっぱり広いのです。きっとこれが、寂しいということでしょう?
正解を知りたいのです。

──

わたしは、少しなら感じられるようになりました。
春は暖かいです。
冬は寒いです。
薔薇を育てています。愛はまだ、わかりません。でも、薔薇が枯れたら悲しいです。
これが愛ですか。
いなくなって悲しいのが愛なのですか。
それなら。
いま、旦那さまがいないことは、悲しいです。
旦那さまがサクラを見られないのは、むなしいです。
これが愛でしょうか。それでいいでしょうか。

──

孫ができました。
孫がわたしの名を呼ぶと、暖かくなるのは愛でしょうか。
あなたの墓石に触れて、微笑むのは愛ですよね。
孫の許嫁を選ぶのに、とてもこだわってしまうのも、愛でしょう。
あなたに、孫をあわせてあげたいのは愛です。
あなたに、会いたいのは愛です。

──

やっとわかりました。
わたしはわかりました。
孫が妊娠しました。たぶん、その子はもう見られないでしょう。それを悔しく思います。
わかったのです、旦那さま。
ほんのわずかでしたが、わかりました。
疑問がなくなりました。
正解をもらわなくてもわかります。
世界は損なわれてなどいなかった。
わたしは損なわれてなどいなかった。
損なわれたるものなど、なにひとつありませんでした。旦那さまは間違っていませんでした。
桜は綺麗でした。
薔薇を愛でていました。
旅をしたいと思いました。
本は楽しく、手芸はおもしろいものでした。
芸術は美しいものでした。
あなたが愛しいです。
答え合わせをしてください。
わたしの短い人生において、導き出したこれらが、本当に愛なのかどうか。

 ──

 主が亡くなった。わたしは彼女の愛していた百合と薔薇の花束を、二人の墓にそっと置く。

 彼女のいない部屋に戻り、片付ける前にすこしだけ部屋を見回した。

 貴族の夫人の割には、随分と殺風景だな、と最初は思った。

 エプロンを結び、箒を持とうとしたところで、一羽の鳥が窓を叩いた。

「おまえの主さまはもういないのよ。どこか遠くへ、飛んでおゆき」

 鳥がしつこく餌を強請るようにそこを離れないので、わたしは窓を開け、鳥を手で払った。

「行きなさいったら。主さまはもういない。あの方の声はもう聞けないのよ……」

 鳥はぴいと鳴いて、数秒の後に空へ舞い上がった。 あるいはわたしになにかを伝えるような、清々しい声が館に響いた。




終わりです。

ここまで読んでいただきありがとうございます。

この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません、と思います。

 それでは次の作品をお楽しみに〜〜


柳野累

 


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