留年コンバット

日記とか

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最近の記事

仮にこれが絶望ごっこではないことをいつか証明したとして、一体それが何になるのか。

    • 「淋しさや飯を食ふなり秋の風」を偶然見かけてから他の句も調べると、小林一茶よすぎてびっくり。

      • つぶやきには長かったので

         俺は俺を知りたいがためにときどき破滅的な願望に身を委ねることがある。それは、戦術上は有効であったとしても、重大な欠点は事実上コストを支払うことになるというところにある。つまり、そのようなスプリット的戦術を採択するという行為は環境に対する心理的適応としては不適切で、健全な人間の身体としては機能不全に陥ることにほかならないのだろう。

        • 礼節を持つ人間にはできるだけ礼節を持ち、礼節を持たない人間にも可能な限り礼節を持つ。

          先生、俺別にずっと死にたいんすよ。言わなかったから結果的に肥大化しただけで、本来はびっくりするくらい些末な問題なんだと思うんですけど。

          先生、俺別にずっと死にたいんすよ。言わなかったから結果的に肥大化しただけで、本来はびっくりするくらい些末な問題なんだと思うんですけど。

          生きてて楽しいときと楽しくないときに何の質的な違いがあるのかが、全くわからない。それなりに理屈をこしらえて納得させるようなレベルでも、何もわからない。だから身体しかありえないなんていう、しょうもない鰯の頭ばかりがある。

          生きてて楽しいときと楽しくないときに何の質的な違いがあるのかが、全くわからない。それなりに理屈をこしらえて納得させるようなレベルでも、何もわからない。だから身体しかありえないなんていう、しょうもない鰯の頭ばかりがある。

          もしくはかなり最適に近いルートが見え過ぎているから面白くないんだろうか。最悪の性質として、理解したから(した気になったから)あとは筋トレするだけってフェーズになったら途端に興味をなくしてしまう。

          もしくはかなり最適に近いルートが見え過ぎているから面白くないんだろうか。最悪の性質として、理解したから(した気になったから)あとは筋トレするだけってフェーズになったら途端に興味をなくしてしまう。

          人生はゲームとしての完成度が著しく低いから面白くないけど、自分で勝利条件を決められる特殊ルールだと思えば面白くなくもない、けど、ロールプレイに(自分が面白いと思う)"本質的な"面白さを感じられないんだよな。

          人生はゲームとしての完成度が著しく低いから面白くないけど、自分で勝利条件を決められる特殊ルールだと思えば面白くなくもない、けど、ロールプレイに(自分が面白いと思う)"本質的な"面白さを感じられないんだよな。

          意味のない場は好きだけど、意味のないプロセスは嫌いで、場はフェアであるべきだけど、場がフェアである以上プロセスはフェアでなくて構わない。割とかっちりしたゲームが好きだ。

          意味のない場は好きだけど、意味のないプロセスは嫌いで、場はフェアであるべきだけど、場がフェアである以上プロセスはフェアでなくて構わない。割とかっちりしたゲームが好きだ。

          自分のやりたくないことを極端に自分のためにできない

          自分のやりたくないことを極端に自分のためにできない

          俺は仕方がないから俺をやってるだけで、何かになりたいわけでもない。

          俺は仕方がないから俺をやってるだけで、何かになりたいわけでもない。

          真っ新なキャンバスに絵を描くよりも既に絵が描かれているキャンバスに絵を描く方が煩雑な工程を要するように、一度学習してしまったことを矯正するのは何も知らない人間に物事を教えるより難しい。のかもしれない。

          真っ新なキャンバスに絵を描くよりも既に絵が描かれているキャンバスに絵を描く方が煩雑な工程を要するように、一度学習してしまったことを矯正するのは何も知らない人間に物事を教えるより難しい。のかもしれない。

          「「「「「「マジで「いつか本当の絶望がやってきて俺を殺す」という幻想だけに生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生

          「「「「「「マジで「いつか本当の絶望がやってきて俺を殺す」という幻想だけに生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生かされている」という幻想によって生

          愛って何だっただろうかという覚え書き———Xで太宰治『創生記』の一節を見かけて

           愛の言葉は、説明を必要としないからこそ愛の言葉となるのだろう。  恋人が愛を囁き合うとき、それがどれだけ人類史上で繰り返し用いられてきたフレーズであったとしても、それが特別な関係性の中でのジャーゴンとして特別な愛の幻想を可能にする。  その幻想は、もはや歴史上で人間による自然支配を盤石にさせた「言語によってはじめて可能になる幻想」というよりも、互いに触れ合い、輪郭を確かめるようなフィジカルな行為に近いのではないだろうか。  と、最近考えていたことが腑に落ちた気がした。

          愛って何だっただろうかという覚え書き———Xで太宰治『創生記』の一節を見かけて

          たまにノートを書いては、読み返して公開しない方がいいなとやめるばかりで、読み返すこともなくすぐに投稿できるつぶやきばかりが増える。8813は偉いよ。

          たまにノートを書いては、読み返して公開しない方がいいなとやめるばかりで、読み返すこともなくすぐに投稿できるつぶやきばかりが増える。8813は偉いよ。

          メタファーを通して物事を理解する(既にあるものになぞらえて理解する)ことは、物事をわかりやすく受け止める方法というより、むしろ名前のついていない事象について仮に名付けて理解しているという点で、より本来の理解に近いような気もしてならない。というか、それ自体が理解することというか。

          メタファーを通して物事を理解する(既にあるものになぞらえて理解する)ことは、物事をわかりやすく受け止める方法というより、むしろ名前のついていない事象について仮に名付けて理解しているという点で、より本来の理解に近いような気もしてならない。というか、それ自体が理解することというか。