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空を見ていた ⑨記憶喪失

1999年6月。

離婚合意から3ヶ月が経とうとしていた。
「離婚したら娘に会わせてやる」との約束を、私はまだ信じきっていた。
なのに・・・音沙汰なし・・・。
公衆電話に向かった。
元夫の実家に電話した。
「あんた、誰だ!?」
そう言って、電話は切れた。
受話器を握り締めたまま、その場に崩れ落ちた。

真っ暗闇に、ぼんやり浮かんでは消える断片的な映像

母が次々と何か言っている
怒っているようだ

なぁに? 何て言ったの? どうしてそんなに怖い顔をしているの・・・?
今は朝なんだろうか・・・ 何時だろう・・・ 何曜日なの?

チャイムが鳴った。
ぼんやりした頭に手を当てて、ドアを開いた。
両親が立っていた。
普段、まったく行き来していないのに、どうしたんだろう?

母の話を聞いても、何が起こったのか理解できなかった。
私が元夫と娘のもとに行ったと言うのだ。
娘の小学校の校長室に行き、「娘に会わせてください」と居座って、その場から引きずり出されたらしい。
東京のどこかで倒れているのが発見されて、病院に運ばれた。
その病院で、「牧師先生を呼んでください。 電話番号は、これです。 牧師先生がいてくれたら安心しますから、呼んでください。」と繰り返し言っていたらしい。
牧師先生が駆けつけてくれて、その後両親が来て、「娘に会いに行く! 娘に会いたい!!」と動こうとしない私を、電車に押し込んで連れ帰ったと言うのだ。

生活保護費の私に与えられた支給額では、電車・特急代なんて払えない。
ましてや10分歩いたら心臓発作に近い状態に陥る体で、何本も乗り継いで5時間もかかる距離を移動できる体力はない。
娘の小学校がどこだかも知らない。
方向音痴で、ひとりではどこへも行けないし、東京にも行ったことがないので、行き方を知るはずもない。

数日の記憶を失ってしまっていた。

何て愚かな母親だろう。 どれだけ娘に迷惑をかけてしまっただろう。 娘には娘の生活がある。母親なしの生活がすでに確立している。
死んだと聞かされている母親が現れたら、どれだけ動揺してしまうだろう。
娘に会えたのかどうかもわからない。

教会へ向かった。
病院に駆けつけてくださったH先生にお詫びを申し上げた。
記憶を失ってしまったことと、それまでの生活のこと等、打ち明けた。

「主人が約束してくれたんです。それなのに・・・」

「もう、あなたの主人ではないでしょう?」

そうだ・・・ もう、私の主人ではないのだ・・・ 私は妻ではないのだ・・・
そのことを受け止められないでいた。心の目は濁ったままだった。
濁りを指摘してくださったのに、気づいていなかった。
私の心の目はその後も濁ったまま、小さな小さなボタンの掛け違えが繰り返し起こり、ついには転落の道を辿ることになる。

まだ、自分という『砂の上』に立とうとしていた。そして『その倒れ方はひどかった』。
『初めの愛から離れてしまった』ことに気づくまでには、じわじわと押し寄せる痛みを、次から次へと味わわなければならなかった。

イエスさまは、私をお見捨てになったのだろうか?
何度そう思っただろう。
私の背きとはかかわりなく、イエスさまは何度も引き寄せようとしてくださった。
涙ぐましいほど、何度も何度も・・・。