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17回忌

2008年10月8日に、父が心不全のため亡くなりました。70歳でした。
今日は17回忌ですが、私は実家から呼ばれていません。
何故なら、母と弟が仏教系の新興宗教の信者で、私はクリスチャンだからです。

父がいた頃の想い出は、良い物は何も思いつかない。
自分の気分次第で子供を可愛がったり虐待したり、子供の頃は毎日びくびくしながら暮らしていました。

姉は2歳からの記憶があります。
それは、私が生まれて、自営業も始めた頃で、イライラして姉を押し入れの上の段に置き、そこから突き落とすという事を繰り返していたそうです。
私が保育園の年長さんの時、弟が生まれました。
私は混乱しました。それまで私は父からとても可愛がられていて、姉は母になついていました。
真夜中に陣痛が始まり、春浅い夜中に車に乗せられ、病院に行きましたが、父がどんなに病院のドアを叩いても開けてくれませんでした。ちゃんと知らせてから行ったのに、入口を間違えたらしいです。
母は陣痛に苦しみながら朝まで待っていました。
その日は月の美しい日でした。父のドアを叩くものすごい音と、母の陣痛の苦しみの声とに潰されそうになりながら、私は眠い目をこすって月を見上げていました。

いつの間にか、家に男の子の赤ちゃんが毎日いるようになり、両親や近所の人たちがこぞって可愛がりました。
それまで可愛がられていたのは私でしたが、ある日から私への関心は消えたようです。
私はわけがわからず、その赤ちゃんを憎みました。自分の”弟”である事を、誰も教えてくれなかったし、自分でもわからなかったのです。

実家はとても貧乏でした。保育園に持って行かなければならない物も用意できませんでした。貧乏は、父が亡くなったあとも、残された母がその貧乏を背負っています。

定年の前年、会社の健康診断で心臓が悪い事がわかり、即手術になりました。
なんと父は、手術の前日までタバコを吸って、先生に叱られていました。
その頃、私は関西に住んでいたので、本当は私には知らせないつもりだったそうですが、万が一のことがあったらと、知らせが来て、すぐに新幹線に飛び込み、面会しました。
何もすることがなかったので、無事を確かめて帰りました。

せっかく心臓にバルーンを入れたのに、父は相変わらず酒・タバコをやめず、食餌の味付けも北海道出身なので濃い目が好きで、母に命じてもとの濃い味の食事をし続けました。
その結果、今度はステントです。よく手術するお金があったなと今でも不思議です。
ステントを入れて、万が一の為にいつもニトロを持ち歩きながら、年金生活をしていましたが、酒・タバコはどうしてもやめず、母もタバコ好きで、夫婦で愚かな生活をしていました。

晩年の父は、すでにものが食べられなくなっていました。心臓手術をすると、食餌の匂いが鼻について食べられなくなる事があるそうです。
同室の人達は、皆父と同じ病気でしたが、毎日お見舞いに行くのは母だけでした。「俺の女房は俺の言う事なら何でもきく」と、同室の人に見せびらかすのが父のやり方でした。
私は2008年の5月と7月に、母の交通費を少しでも浮かして欲しいと父に頼まれ、それぞれ1週間ずつ手伝いに行ってました。
自分の孫のような看護師さんに、屁理屈を言ったり、嫌味を言ったりしている父が恥ずかしかったです。「この人は、死の間際でもまだ自分を改めないのか?」と不思議でたまりませんでした。余命を告げられているのに、もっと有意義な時間を過ごせないのだろうか?

両親とも貧しい家系の出身で、愛情を知らずに成長し、学校も中学までで、父は丁稚奉公に出され、母は自作農業を手伝っていました。二人とも定時制には入学は出来ましたが、中退しています。因みに、姉と弟は、お金さえ払えば馬鹿でも入れてやるという私立高校に入学し、私が高校に入学する頃は、父の転勤で中学を3回も変わらなければならず、父は仕事をやめて退職金を持って失踪、母はどっかの金持ちのおじさんの愛人となって私達子供を連れてマンションに引っ越しましたが、結局棄てられ、父が母を見つけ、同居する事になり、また5人の生活が始まりました。
私は高校に入学する年でしたが、両親は高校のお金を用意していませんでした。同世代の子が卒業式をしている頃、私は県立の通信制過程を見つけ、1年間の授業料が1万円で、親はその1万円をくれなかったので、飛び込みで花屋で1万円分バイトし、次のスクーリングの時に学校におさめ、やっと高校生になれました。

父の「この魚はくさい!」などの我儘を耳にしながら、私は父がせめて最後ぐらいは虐待のお詫びをしてくれるんじゃないかとほんの少しの希望を持っていましたが、それは無理な事でした。
気分次第で殴る・蹴とばす・髪をひっつかみ投げ飛ばす、鼻血が出て母に「助けて!」とすがっても、母は表情のない顔で編み物をしていました。
今にして思えば、母はうつ病だったかも知れません。

8月にまた実家から電話がありました。今まで3回も4回も蘇生してもらっているとの事でした。父はペースメーカーを入れたがっていました。ペースメーカーを入れれば楽になれると思ったのでしょう。
でも、父が入院している新しく出来た大きな病院では、その技術がありながら、手術中に死なれては困ると、わざわざ救急車で高速道路を使って3時間はかかる病院へ運ばれ、そこでペースメーカーの手術をしました。
1か月くらい、その病院で入院し、また救急車で高速道路を使って、父が嫌っている(看護師も父を嫌い、ひどい扱いを受けました)病院へ返されました。
私は8月から咳に悩まされ、一度咳が始まると治りが悪く、手術に立ち会えませんでした。なんせ、じっかの近くしか住んだことがない姉と弟も、手術に立ち会わないし、お見舞いも行っていなかったようです。姉など「さっさと死ねばいいのに、往生際が悪い!」と怒っていました。

父は10/8、ICUで死亡しました。
これから書くことは、父が私に夢の中で教えてくれた自分の死についてです。私はたまに夢の中で亡くなった人にいろいろ教えられることがあります。

父の死

10月7日夜9時、検温
心臓発作 ペースメーカー作動
ICUの看護師が当直の医師に連絡
医師の判断:もういいでしょう
カルテの記入は10月7日夜の検温のみ


10月8日朝、母から電話。父危篤との事。
私はその時、”父はすでに生きていない”と感じ、予定通り歯医者へ。
offにしてある携帯に、何回も電話がかかってくる。
処置を終え、支払いの時窓口の人が「お身内の方がお亡くなりになったと電話がありました」

家に着くと、夫がどうしていいかわからず、会社に電話し事情を話し休みをとっている。
私が母の携帯に電話すると、「すぐには来なくていい、あとでこっちからまた電話する」。

結局、父の遺体はパジャマのまま狭い団地に運ばれ、弟と母が入信している新興宗教のお題目をふたりで唱えているのを、私は不思議な気持ちで見ていた。
「友人葬にするから」と言われていて、場所を教えてもらい、葬儀が行われる場所に行った。
音楽が大音量でかかっている。新興宗教の歌だ。
私が父の祭壇を見ていると、父が満足そうに自分の葬儀を見ているのを強く感じた。
この新興宗教にはお坊さんがいなくて、信者が「お題目」と言うものを、一斉に唱える。耳がぐわんぐわんした。

火葬場で別れる間もなく、焼く人が「早く窯に入れろ」と父の棺桶が乗った台を窯の中にさっさと入れ、火入れをした。
どれくらいたったろう。「焼けました」との声に、骨を拾う場所に行くと、まだ父の足の骨に火が付いたままだった。
「早く骨を拾って!」と高圧的な口の利き方に、腹が立ちながらも、とにかく早くここから出してあげようと、骨を骨壺に入れて行った。
職員のおじさんが弟に「もっと骨を砕かないとはいらないだろう!」と半ば𠮟りつけるように大声を出した。弟は目に涙を浮かべながら父の骨を砕いた。
その日は火葬が多く、忙しすぎて大変だったようだが、あの職員は死ぬ直前、考えられないほどの恐怖を味わうだろう。

北海道に生まれ、貧乏に育ち、母を早くに治し、跡取りは一人だけなのに丁稚奉公でに人間扱いされていなかった父。家庭を持って幸せだったのだろうか?
仮に、父が幸せであったとしても、私は両親が私達子供にした虐待、ネグレクトを忘れられないでいる。
7回忌まで、毎晩父は私の夢の中に出てきて、母が浮気をしてるんじゃないかとグズグズ言っていた。本当に迷惑な話だ。

貧乏人は死んでもやはり貧乏で、父には墓がなく、前年に亡くなった母方の祖母も墓がなく、実家の団地に骨だらけだ。

経済的に苦しいなら、せめて愛情を!!
私は小学生の時からずっとそう思ってきた。
人と我が子を比べるのはやめて、きょうだい同士を競わせるようなことはやめて、何故、両親はそんな簡単な事がわからなかったのだろう?
残った母は、やはりわからないでいる。
私はやるせない気持ちで、子供の頃から「自分には肉の体を持つ両親はいても、彼らは私の親ではない」と考えてきた。

今日、私の方から母に電話をしてみようかとも思ったがやめた。
この11年(私が全身火傷したのが2013年)、母は3回も縁を切って来た。
で、何か暇を持て余すと電話をかけてきた。そして「アタシが死んでもアンタには教えてやんない!」とまた縁を切る。
私は恥ずかしい。こんな地獄のような関係、なかった事にして欲しい。