空を見ていた ⑥夕焼けはいつも美しかった
日曜日に教会に行ってみた。
玄関先で話しかけられたが、私は返事をすることが出来なかった。
あ者だからだ。
筆談用のメモ帳を取り出そうとしたら、別の方がすぐさま席に案内してくださった。
20年も教会へ通う日を待ち続けていたのだから、本当なら喜びでいっぱいのはずが・・・激しい恐怖に襲われていた。
当然のごとく、男性がいたからだ。
全内蔵機能低下するほどに激しい暴力を受けた私にとって、男性がそこにいるというだけで脂汗が噴出す。心臓の鼓動が激しく乱れる。
どんなに優しい言葉をかけられても、優しく接していただいたとしても、いつ豹変するかわからない。
恐怖そのものだった。
逃げ出さないように、必死に椅子にとどまっていた。
礼拝が終わり、幼い子を連れたご夫婦が声をかけてくださった。
別の小さな女の子が、折り紙をくれた。
こどもは大人が偏見的な態度を取らない限り、目の前の人をありのまま受け止める力があるのだ。
その無邪気さ、おおらかさに、いつもの嘆きの涙とは別のものがあふれ出した。
「シオンサン、キテクダサイマシタネ」
最初に迎えてくださったサンタクロースのような青い目をした男性がにこやかに声をかけてくださった。
そして、その週から毎週木曜日の夕方に、サンタクロースのような宣教師であるB先生と教会でお会いすることになった。
夕方の英語教室が始まるまでの1時間を、私のために確保してくださった。
その1時間の間、B先生だけが話していらした。
私が行くと、いつも「アナタガ キテクレテ トテモ タノシイデス」とおっしゃってくださった。
楽しいはずはないのに・・・。
そのころの私は、無表情で、まったく反応しなかった。
あまりの辛さに、喜怒哀楽を表すことさえ出来なくなっていた。
失声症になった直後に、すでに自分の声を忘れてしまった。発声方法がわからないのだ。
言葉を失うと、自己喪失を招くことがある。
言語によって、思考出来なくなるのだ。 まるで、私という『全人格』が徐々に消滅していくような錯覚に陥った。
あ者であり、生活保護受給者という状態は、あまり幸せだとは言えない。
面と向かって、人格否定されたことがある。 『人間』として扱われない場合もある。
そのような状況でも投げ出してしまわなかったのは、イエスさまがしっかり手を握り締めていてくださったからだ。
手話がある程度話せても、相手が手話がわからないと、コミュニケーションは成り立たない。
筆談も、書くにも読んでいただくにも相手に待っていただくという負担をかけてしまう。
沈黙している以外、方法がなかった。
素性不明、ましてや私がこどものときから20年もひとりで聖書を読んでいたなんて、誰も知らないことだった。
にもかかわらず、B先生は毎週1時間を私のために確保してくださり、聖書のこと、イエスさまのことを惜しみなく教えてくださった。
声も出ない、何の反応も示すことの出来ない私を、そのまま受け入れてくださった。
たいてい、辛く悲しい状況に置かれていると、自分に優しくしてくれる相手に対して、特別な想いが芽生えてくるものだ。
相手が限りなく優しい男性なら、なおさらのこと。
でも、一度もそういう思いをB先生に対して持ったことはなかった。
私が求めていたものは、イエスさまそのものだった。
B先生も、あくまでも『みことばを伝える』ということから逸脱したことはない。
感情で、相手に惹かれることはよくあることである。
が、神さまが間に入ってくださると、感情に支配されない、左右されない。
そこはまさしく天国そのものだった。
神さまの愛だけが流れている時間だった。
B先生と教会のひとりひとりの隠れた祈りによって、私は縛られていたものから急激に回復へ向かうことになる。
それは、1999年3月に起きた。
B先生が一緒に過ごしてくださった木曜日の夕方は、たいてい晴れていた。
夕暮れ時、ヨロヨロした足取りで教会に向かう途中、いつも夕焼けに包まれていた。
あの美しい夕焼けは、今も心に刻まれている。