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9月27日(火)

5時頃起きて、ほめほめノート書き、5年手帳書き、日記書く。日記を書く人達はポメラという執筆専用の端末を使う人が多いということを知り、ポメラの代わりにiPadにキーボード付けたやつで書いてみる。パソコンで書くより書くことに集中できる感じがして良いかも。今後はこれで書いてみることにする。

朝ごはん、昨日の煮麺とヨーグルト食べる。4歳を寝室から運ぶ。1歳も運ぶ。ZIP!で10分でできる焼き芋のおいしい作り方という特集をやっていて、土曜日に掘ってきた芋がたくさんあるので真剣に見る。芋を水で濡らした後、ラップで包み、電子レンジ600wで1分間、200wで8分間温める。焼き芋感を出したい時はさらにトースターで焼く。掘った芋は2週間くらい待たないと甘くならないみたいなので2週間後くらいに試したい。4歳が「焼き芋食べたい!2週間も待てない!」と言う。8歳いってらっしゃい。今日も1歳がばいばーいって何度も言う。1歳と4歳と奥さんもいってらっしゃい。

世界一楽な筋トレと3分半の腹筋のやつやる。やりながらPodcast聴く。今日は集中してがんばるぞと思いバジャワのコーヒー豆をセットする。シャワーして、散歩行く。歩き始めると雨がぽつぽつ降っていて、まぁ大丈夫かと思いながら歩くとざぁざぁ降ってきて、こりゃだめだとなって来た道を引き返す。行きはあっという間だったのに帰りの道は長く感じる。戻って、トマトジュース飲む。3ヶ月前くらいから健康のために毎日飲むようになったけど、何か効果があるのかはよくわからない。健康診断の数値はよくなっていたから続けてみる。コーヒー飲みながらfuzkueの日記を読んで、その後歴史思考を読む。仏教を開いたゴータマ(釈迦)の章になり、「『私』の境界はどこにある?」という話になって、これはみんなの才能研究所のPodcastでも話題になってかなり感銘を受けたやつ。苦しみとは、自分の願ったことが願った通りにならないこと。ゴータマは人間が本来、コントロールできないことをコントロールできると思い込むことを「執着」と呼んだ。物事に執着を抱く「私」は、本当に存在しているんだろうか?私たちが「私」と思い込んでいる単位は正しいのだろうか?ゴータマはこの問いを追求した結果、「私」を規定することは難しいという結論に達する。2500年前にたどり着いた結論が、現代の先端科学とも矛盾しない。人間の体の大部分は水で構成されていて、その水分は、汗や排泄物として体から出ていく、大気中の水蒸気となったり川や海に漂う水となったり、別の動物の体を構成したりする。別の人間の体を構成しているかもしれない。ではかつて、ある人の体を構成していた水分で構成されている「私」と、かつて「私」の体を構成されているその人は、同じ人間なのだろうか、それとも別の人間なのだろうか…。どこからどこまでが「私」であるかは、我々が恣意的に決めているだけであって、実際にそのように存在しているのではない、とゴータマは言う。という話。ゴータマの考え方すごくわかる。というか最近わかってきた。自分だけのことを考えたり、自分だけが幸せになろうとしたりすると、結果不幸になる場合が多くて、生きている人々は全て区別がなくて、仮の体という1つの細胞みたいなものが与えられているだけで。例えば人が左手の細胞の幸せだけを考えて、右手の細胞の幸せは考えないみたいなことをしないのと同じように、その単位を周りにいる人全体とかこの世の人全体として考える。そうすると「私」という単位はほとんど意味がなくて一つの細胞みたいな小さい単位の「私」のことだけを考えて悩んだり執着したりするのは意味がないことだなとなってくる。みんながハッピーになることが結果自分の幸せにつながることになってくる。この仏教の考え方がこの前読んだ「私とは何か」にも重なる。「私」というのは個人ではなくて、私と誰かが交わった「分人」という概念の集合体であるとか、誰かが死んでもその人との間にできた分人が誰かに残っていればその人は生き続けているというような考え方。そこと繋がって、私とそれ以外の人の境界というのは曖昧なものだなぁという感覚をまた強く感じた。その境界が、自分から恋人に広がったり、家族に広がったり、会社だったり、地域だったり、コミュニティだったり、国になって、世界になって、と徐々に広がっていくのかもしれない。

歴史思考を読了する。仕事部屋に行き、仕事する。コーヒー飲んで集中できる。タスクが一気にたくさん降ってきたけど、それを分けて、たおさんやエンジニアさんのお二方にメッセージを送ってお願いする。今までは一気にタスクが来た場合、全部1人でやるしかなくて、一つ一つこなすしかないから待ってもらうしかないし、重い塊が自分の所だけで留まっている感じで、それが負荷になってどんどんつらくなる感じだったけど、今はお願いできる人がいて、並行して進めたりすることができる、自分でやることもできるし、お願いすることもできるっていう自由度があって、働き方を選べる感覚に今日気づいてとてもありがたいし、とても良い方向に向かっている感じがする。今までは自分がやっている仕事をお願いできる人がいなかったから、「この仕事は自分にしかできないのでは」と錯覚していた。けど探してみるとできる人が普通にいて、サクサクこなしてくれてすごい。慢心だった。そうなると今度は自分の価値とは何だろうとなって、自分にしかできない仕事をやろうという方向に向かっていく。それは今までの、やり方がわかっている仕事をこなすよりとても苦しいけど、その方が確実にレベルアップする方向だと思うのでがんばる。がんばるぞと思う。

あと、人にお願いする時は急いでほしくても期限を短くするのではなくある程度のゆとりを持ってお願いするのはとても大事だと思った。今日中とかにお願いという依頼は人に自分のスケジュールを決められている感じがして苦しく感じるので、ある程度の日数を用意しておいていつやるかはその人が選べるという方がストレスなく仕事をやってもらえるのだろうなと思う。自分で選べるというのがとても大事だ、ということを思う。

お昼ご飯、目玉焼きやソーセージやサラダや蓮根のきんぴらが入ったお弁当をチンして食べる。15分仮眠して、その後もタスクを消化したり、エンジニアさんとZoomしながら作業したり、デザイン進めたりする。

19時前に仕事終わり晩ご飯。1歳と4歳とお風呂入って、さんま御殿がおもしろくて見ながら、20時半くらいからリビングの電気を間接照明にして暗くして、1歳を抱っこしながら引き続き見る。21時半になっても1歳寝てくれず、奥さんにバトンタッチしてたおさんとMTG。Vueで出しわけ処理の部分について一緒に作る。たおさんの家のWifiの調子が悪いみたいで、22時半にMTG終了しておやすみ。




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