第一尚氏王統の動乱②【教養版】
みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。
今回のテーマは心がじんわりと沁みるような内容になっています。熱が入りすぎてしまい、少々長い記事になってしまいました(笑)
さっそく前回同様“第一尚氏王統の動乱”についてお話させていただきたいと思います!
王朝を揺るがす2つの動乱
前回の振り返りになりますが、第一尚氏王統の動乱とは大きく2つあげることができます。
①志魯(しろ)・布里(ふり)の乱【王座争い事件】
②護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱【クーデター事件】
①の乱は5代国王尚金福の息子(志魯)と弟(布里)が王位継承をめぐって起きた乱でした。
争いの結果2人とも命を落としてしまい、6代国王として布里の弟である尚泰久が即位しました。
図にまとめるとこのようになります。
そして時は流れて尚泰久の時代になります。
志魯・布里の乱からわずか4年後に②護佐丸・阿麻和利の乱は起きてしまったのです。
②護佐丸(ごさまる)・阿麻和利(あまわり)の乱【クーデター事件】
登場人物
まずこの事件の登場人物を紹介します。
・護佐丸(盛春):大北(オーニシ:読谷山・恩納)地方を領していた按司(あじ:有力者)。尚巴志の北山征伐時に従軍。その後北山守護職として座喜味城(ざきみぐすく)を築城。
勝連城(かつれんぐすく)を中心とした勢力の拡大により、警備のために中城(なかぐすく)の地に移動して中城城を築城。
・阿麻和利:百姓出身で勝連按司を滅ぼし、自ら勝連按司となる。中城城の護佐丸と敵対関係となる。百度踏揚(ももとふみあがり)を妻に持つ。
・百度踏揚(ももとふみあがり):尚泰久王女。泰久の政略として阿麻和利に嫁ぐ。
・大城賢勇(うふぐしくけんゆう):武勇に優れていたため鬼大城(うにうふぐしく)とも呼ばれる。阿麻和利に嫁ぐ百度踏揚の護衛として同行。乱の際には阿麻和利を討つ。のちに金丸(尚円王)によって逆賊として知花城にて討伐される。
この4人が主な登場人物となります。
阿麻和利の悪知恵
1458年、護佐丸は中城城にて勝連城の阿麻和利の警戒を行なっていました。護佐丸は兵馬による訓練を積極的に行い、阿麻和利を牽制していたのです。
その様子を見た阿麻和利は正攻法では勝つことができないと考え、ある奇策を思いつきます。
それは護佐丸と泰久の仲を引き裂くことでした。
阿麻和利は小舟で与那原(よなばる)に渡り首里城に入城し、「護佐丸が謀反を企てている」と泰久に訴えました。
護佐丸は娘を尚王家に嫁がせており、親族関係であったために泰久は当初信じていませんでした。
(娘は巴志の妃となったが諸説あり『夏氏大宗由来記』には泰久の妃)
泰久が中城城へ遣いを送ると護佐丸が武器を製造し、兵馬を訓練していることが判明します。
泰久は阿麻和利の言葉を信用し、なんと阿麻和利に護佐丸征討を命じてしまったのです!
当の護佐丸は阿麻和利の謀反に気づくことができず、阿麻和利が中城城に攻め入ってきた際には宴を行なっている最中でした。
そして護佐丸は王の軍に背くことはできないとして、夫人と二人の子供を殺害し、自ら首をはねて自害しました。
父か夫どちらを選ぶ,,,!?
護佐丸を討った阿麻和利は王座を狙い、首里への謀反を企て始めます。
百度踏揚(ももとふみあがり)と同伴して勝連城に遣わされていた大城賢勇はこの企みにいち早く気づき、謀反について百度踏揚に告げます。
百度踏揚は父尚泰久か夫阿麻和利のどちらかを選択しなければいけませんでした。
結果的に父に謀反を告げることを決心した百度踏揚は夜に大城賢勇とともに、首里へ立ちます。
追手に追われながらも明け方になんとか首里城に到着し、泰久に謀反について報告することができました。
それを受けて、首里では臨戦態勢を整えることができ、首里を攻めに来た阿麻和利軍を返り討ちにしたのです。
敗れた阿麻和利は勝連城に撤退し籠城しましたが、弱点であった平坦の東側を挟み撃ちで攻められ、大城賢勇に討ち取られました。
これにて護佐丸・阿麻和利の乱は終了です。お疲れさまでした,,,!
護佐丸の子孫
豆知識として、護佐丸の子孫は現代にたくさんいらっしゃいます。次回以降に詳しくお話しますが、名前の一文字目に“盛”と書かれる方はこの護佐丸の家系となります。
護佐丸擁する中城城が陥落した際に、乳母が幼児を一人抱えながら中城城を脱出したとされています。
その後島尻の国吉の地頭である国吉親雲上(ぺーちん)真元によって匿われ、幼児は育てられました。
その幼児は成長し、のちに豊見城盛親(とみぐすく)として尚円王に登用されるのでした。
この豊見城家は五大姓(五大名門)の1つとして、その後王府を支え続けます。日本で言うところ藤原氏でしょうか。
中央:琉球末期の豊見城家当主
おわりに
いかがでしたか?忠臣護佐丸の死、百度踏揚の決断など見どころ満載でしたね。
実は私も高祖父がこの豊見城家の出自でしたので、この護佐丸には非常に思うところがあります。
阿麻和利につきまして、勝連のおもろ(歌謡)には賛美された作品が多くあります。
しかしおもろは多くの場合、主権をたたえるものであるため阿麻和利を人情深い豪傑と断定することはできません。
今回のnoteは熱が入りすぎてしまい少し長くなってしまいました!
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました!
それではみなさん、次回もお楽しみに!!