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沖縄の人は祖先が辿りやすい!? 王国の意外なルール【教養版】
みなさん、こんにちは! 伊江朝恭です。
数あるnoteの中から、ご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
私事ではありますが、大学の友人たちと北海道へ旅行に行っており、noteを更新することができませんでした,,,
友達と大学最後の夏に素敵な思い出を残すことができたので、非常に満足しています。
はじめに
さて、さっそく今回のテーマ「琉球王国の意外なルール」をご紹介していきたいと思います!
突然ですが、みなさんは自身のルーツについてどのくらいご存じでしょうか?
「家に家系図がないから曾祖父まで」や「戸籍謄本で調べてみたけど思うように進まない」などあるのではないかと思います。
家系のルーツについて調べてくれる業者も数多く存在していますが、多くの場合は良くても江戸時代後期頃までの調査で終了してしまいます。
琉球の家系図の特徴
しかし沖縄にルーツがある方は自身のルーツをもっと調べることができる家系が数多く存在するのです。
その理由は琉球王国時代のあるルールにあります。
琉球では「家譜(かふ)」という家系図を士族以上の階級の一族は作成していました。
士族は「名門のウチはここまで家系を辿ることができるのだぞ」と家譜を編纂できることを誇らしく考えていました。
家譜は正式にいつから作成されていたものかは定かではありませんが、大きな分岐点が訪れます。
それは1689年に「士族は家譜を編纂し、5年に一度王府に提出せよ」とのルールが正式に定められたことです。
※離島では1729年に久米島・宮古八重山の地方士族のみ作成を命じられました。
これにより士族以上の家系は家譜を作成するようになったのです。
士族たちはこの家譜を5年ごとに2冊編纂します。1つは王府の中で家譜や書物管理を行う「系図座」によって保管され、もう1つは自分たちの家で保管していました。
系図座では家譜を確認したという記録として御朱印を捺します。以下の写真は私の家譜のコピーです。
この写真上部に捺されているのが御朱印です。
次に家譜の中身を見ていきましょう。
名前・生年月日・両親や結婚相手のプロフィール・娘息子のプロフィール(娘の場合は嫁ぎ先まで)・時の国王の御代での功績
など細かく記されています。
家系図のその後
この家譜ですが、王国末期には約3000冊も存在していたとされています。
しかし王府が管理していた家譜は琉球処分によって系図座から中城御殿(なかぐすくうどぅん:世子の邸宅)に移され、沖縄戦によって全焼してしましました。
また琉球処分時に明治政府によって王国時代の資料として200冊ほどが東京に持ち去られました。
そしてその家譜は関東大震災で全焼したという説や県立図書館に返却された説など様々あります。
しかし確かなことは沖縄戦によって数多くの遺産とともに家譜を消失してしまった家系が多く存在することです。
おわりに
いかがでしたか?今回は私はこの家譜が自身の人格形成に非常に役立ったと感じています。
この記事をお読みになってくれた方々が、自身のルーツを調査するきっかけになってくれれば嬉しいです。
調べてみたい!思った方は那覇市歴史博物館に多くの家譜が保管されていますので、ネットから予約をしてみてください。
那覇市歴史博物館内でコピーをさせていただくことができます。
質問や取り上げてほしいテーマなどはTwitterの方で随時募集していますので、気軽にご連絡ください!
最後までご覧いただき、ありがとうございました!