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功績がなければ降格?王族の内情【教養・発展版】
こんにちは! 伊江朝恭です。
いつもnoteをご覧いただきまして、ありがとうございます。
前回の記事では「王妃」について学習しましたが、その際に「娘を王妃にすることで出世争いで優位になることができる」といった王族・士族のお話を少し触れさせていただきました。
そこで今回のテーマは、第二尚氏王統における「王族の内情」ということで記事を書いていこうかと思います。
王族のイメージは?
みなさんは「王族」という言葉にどのようなイメージをお持ちになりますか?
「華やか」「あまり仕事をしていない」など様々あると思います。しかし琉球王国における王族とは実績を残さなければならない競争が激しいポジションでした。
王族の構成
琉球王国における王族とは「王子」「按司(あじ)」によって構成されていました。
・王子:国王の息子で間切(まぎり・治める土地のこと)を与えられ「○○(間切)王子」と呼ばれた。
また国王の子孫(按司)が出世をして王子になることもあった。
・按司:国王の孫の代以降はこの“按司”である。国王から分家した王子の長男たちは王族という家格を保ちながら、出世をして王子になれる機会をうかがっていた。
言葉で説明すると難しいですよね(笑) 図で表すとこんな感じになります。
琉球王国における王族の呼称
琉球王国では王家のことを「御殿(うどぅん)」と呼んでいました。日本における「宮家」ですね。
この御殿は王族その方を指す言葉であったり、その方の邸宅や家系のことを○○御殿と呼んでいました。
例えば、伊江島(いえじま)を知行していた王家は“伊江御殿”と呼ばれ、元祖は伊江王子(尚清王七男)、二世は伊江按司と称しました。
琉球末期の王族
では王国末期にはいったいどのくらいの御殿(分家王族)が存在していたのでしょうか?
王子家4、按司家26が存在しました。
このように按司の方が非常に多い割合になります。
※末期とは最後の国王尚泰の治世を指しています。
王子家は宜野湾御殿(じのーんうどぅん:尚泰次男家)、松山御殿(まちやまうどぅん:尚泰四男家)、今帰仁御殿(なきじんうどぅん:尚育三男家)、伊江御殿(いーうどぅん:尚灝五男家)の四家になります。
みなさんはどのように感じられましたか?「予想以上に多かった!」と思われる方が多いのではないでしょうか?
琉球王国の王族の特徴
琉球では家系を非常に大切にしていました。日本の宮家では断絶という形が見られますが、琉球は御殿に後継ぎがいない場合は、国王の息子が養子として迎え入れられたり、他御殿の出身者が後を継ぎます。
このようなところにも琉球王国の特徴が表れていますね。
例えば上記の王子家は宜野湾御殿・松山御殿・今帰仁御殿は国王の息子が分家として新たに御殿を立ち上げていますが、伊江御殿だけは違います。
伊江御殿は4代国王尚清の七男が立ち上げた御殿です。その後代々王子や按司が家格を保ってきたわけですが、10世の当主に嫡子(後継ぎ)がいませんでした。そこで時の17代国王尚灝が五男を養子にしたのです。
激しいポスト争い
ここまで理解していただいたうえで、今回のテーマ“王族の内情”についてお話していきたいと思います。
上記のように琉球王国では家系を大切にしていたため、王族(御殿)が非常に多いです。その中では競争率が高く、熾烈な功績争いが行われていました。
なぜなら、功績を残すことができない場合、「転封」「士族への降格」が成されるのです。
「今のポジションに残るために功績を残さなければ!」と考えるわけです。しかしそんな王族たちに任される職は形式的な“名誉職”がほとんどであり、功績として残るものではありませんでした。
そのため数多くの王族が摂政(しっしー)や江戸立の正使・薩摩への使節など少ないポストを競い合っていました。
こう考えるとイメージされやすい“楽な階級”というわけでもないかもしれませんね(笑)
また新たな国王の息子たちが限られた間切(知行地)を按司から奪っていきます。
目安として3世から5世までの間に功績がないと判断されると転封の対象であったそうです。非常にシビアな世界ですよね。
終わりに
いかがでしたか?
初めて取り上げたキーワード「御殿」、これは琉球史を語るうえでは非常に大切なものになりますので今後も取り上げていくつもりです。
いつも多くの方に最後までご覧いただき、ありがとうございます。
次回もぜひご覧いただけますと嬉しいです!