建築家の役割は何か(造形だけじゃない)
こんにちは。毎週建築や、建築に関連する記事を投稿しています。建築学科三年のRyuki です。
本日は、ゼネコン、工務店、ハウスメーカーなど、大きな会社が世の中にある大半の建物を建てている中で、個人の「建築家」がなぜ必要なのか、という事を改めて考えてみます。
戦後の日本社会では、建築家はスター的存在でした。復興や高度経済成長、万博に伴い多くの象徴的な建物が建てられる中、
丹下健三とう建築家が 広島の平和記念公園、都庁、代々木第一体育館などのアイコニックな建築を手がけ、発展する街に更なるパワーを与えてきました。
黒川紀章や磯崎新など、そのあとの世代の建築家も同様に、全国各地に象徴的な文化施設を手がけましたが、バブルの崩壊を経て、日本において建設業そのものの印象や需要が大きく下落したことで、建築家が国内で活躍する機会は減っていきました(その後有名建築家たちは海外で様々な建築を作り高い評価を得ますが、それはまた別の回で書こうと思います)。
それ以降日本で仕事を得ていた建築化たちは、建築界で「野武士」と呼ばれ、メディアに大きく取り上げられることは少ないながらも、小規模な住宅に建築の可能性を投影し、様々な建築を作っています(伊東豊雄、安藤忠雄、毛綱毅曠、石山修武など)。
そして、こうした人たちはパトロンを得にくい状況の中で建築のあり方にむきあい、一見すると「奇抜」なものを世に多く残しています。
住宅作品をとっても、普通の住宅になれている人から見ると、「変わった形の家」「おしゃれな家」「住みづらそう」といった印象を与えるものが多いでしょう。
ですが、こうした建築家たちのつくった作品の価値は、単なる造形や奇抜さなど「センス」的なものではなく、技術や社会の変化の中での既存の住宅建築の先にある新たな「可能性の模索」であり、独特な造形の先にある新しい機能、情緒、生活のスタイルにあるといえるでしょう。
建築は売り物の中でもトップクラスに大きいため、「試作」は容易にできませんし、そのスタイルの変化にも時間がかかります。大きなモノであるため、一見すると不変なもののように感じてしまいますが、社会や人々の価値が変化している以上、
固定電話から携帯電話、スマホへと変化したような電話と同様、変化は必須です。
不況の一方、業界自体の経済規模も大きいため、企業が経済的な採算をとることに力を割かなければならなかったこれまでの時代、人の暮らしのことも考え、大きな組織の手の回らなかったところにある「豊かさ」を追求していたのが、これまでの建築家だったのではないか、と考えています。
そして現代は、企業も変化を求める時代なので、その様相も変わってくるのではないかというのが僕の考え方です。企業という大きな組織も、経済性だけを追求することは難しくなり、ウェルビーイングや環境問題といった考え方が必要になってきた現代、企業は自分たちの外にある、そうした分野の専門家と手を組むことが多くなるのではないでしょうか。
たとえば渋谷の駅前開発のプロジェクトでは、多くの建物が有名建築家とゼネコンの共同建築ですし、建築家とTOTOがコラボしたTokyo Toilet というプロジェクトも話題になりました。
https://casabrutus.com/categories/architecture/335530
大企業の持つ資本と、それによって可能な企画、課題解決の実現のために、建築家の新しい視点を合わせる、といったイメージが持てますが、社会に大きなものを生み出すとき、企業と個人がそれぞれの長所を持ち寄ることが、様々な現場で求められるようになっているのではないかと感じました。
これまでの時代から変化してきたことは、建築家に対して仕事を依頼する相手が、行政(国)→+個人→+企業 となっていることだと考えています。より多くのプレイヤーが建設に参加し、求められることも増えていく中で、建築家の仕事はより複雑になってくるだろうと感じますね。
そして、建築家の種類も、意匠だけでなく、構造、環境など様々に分化しているため、そうした境界を越えて様々なことを統合的にデザインできる人材が必要なのではないかと感じています(現状はその役目を大企業や意匠建築家が行っているというイメージがありますが、そのまとめ役の所在は明確ではないと感じています)。
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